「あー、腹いっぱい」
将は満ち足りた腹を叩いた。
鍋と餃子、そして明日の朝だけでは食べきれないだろうと将が持ってきたおせちの一部。
ずらりと並んだ夕食はあらかた二人のお腹に消えた。
「夜食で年越しそばもあるから」
と聡が玄米茶を淹れながら声をかける。
新婚夫婦のようなひとときに、将は幸せを噛み締めながら茶を淹れる聡を眺める。
この幸せは今だけではない。来年からは日常になるのだ。
いや、日常にするために、絶対に合格しなくてはならない。
甘い時間の中で、その現実だけがピリリと辛く将をひきしめる。
「食いすぎたら眠くなっちゃうかな」
さっきのようにふいに襲う眠気を将は恐れている。……もっとも聡と一緒の今日は、4~5時間寝てもいい、と特別に自分を許しているのだけど。
「頭使ったら、きっとお腹すくわよ。……あ、腹ごなしに将、お風呂入っちゃえば?」
その準備をしようと、素早く席を立つ聡に
「また、一緒に入る?クリスマスのときみたいに」
と将はその腕をつかむ。振り返った聡は顔を赤くした。
あの、二人腕をからませて、降りしきる雪の中を帰ったクリスマスイブの夜。
寒さに震え上がった二人は、一緒にお風呂に入ったのだ。
正確に言えば、聡が先にお風呂に入っているところへ、将が無理やり割り込んだのだが……。
「だめよ。あれからもっとお腹が大きくなってるんだから。恥かしいよ」
聡は将を軽く睨んだ。
あの日、大磯の邸宅の檜の湯船の中で、将は聡の少し脹れたお腹にじかに触れた。
お腹の子は、寒いところから温かいお湯に入って喜んでいるのか、活発にぼこぼこと動いた。
『すごいな。あんまり膨らんでないのに……こうしてると、赤ちゃんがいるのがよくわかるよ』
将は聡を後ろから抱きしめながらお腹をなんども撫でて感動を口にした。
聡としてはクリスマスだし、今日は特別だから……将を受け入れてもいいと思い始めていた。
だが、将は聡の素肌の感触を確かめただけで、聡を先にお湯からあがらせようとした。
『このままだと、我慢できなくなっちゃうから』と照れ笑いする将に
『今日は特別。我慢しなくていいよ』
聡はいたずらっぽく笑うとお湯の中の将にしがみついた。
本当?と将は聡の顔を見た。長湯したせいか、お互いもうのぼせる2歩ほど前だ。
汗でほつれ毛が張り付いた聡のほっぺたも……照れのせいなのか、長湯のせいなのかわからないほど真っ赤になっていた。
『でも、やっぱりやめとく。ひなたちゃんによくないから』
そう言ったのは将のほうだった。
激しい性行為は流産の元になる、と将は受験勉強の合間に何かで読んだらしい。
『アキラと、激しくないアレなんて考えられないから』
今度は将がいたずらっぽく笑う番だった……。
「将は、すごく子煩悩になりそうね」
あのときを思い出した聡がつぶやく。
「あたりまえじゃん。アキラと俺の大事な子供だもん。……俺、絶対、子供は可愛がるって決めてるんだ」
食べ終わった食器をキッチンに運びながら、将は強い口調で決意を新たにした。
「将も小さい頃は、お父さんに可愛がられてたんでしょ」
聡は、将に微笑みかけた。
二人でお風呂に入ったあと、将が勉強する傍らで、聡は大磯にあった古いアルバムを見た。
そこには、幼い将の成長が逐一記録されていた。
貼り付けられない写真が、ポケットにはみ出すほどに――。
おそらくパリで撮ったらしい写真は、将単独か、実母の環と二人のものが大半だった。
将は1歳から、父の仕事の都合でパリに行っていたという。だから、おそらく幼い将を一生懸命撮影したのは父の康三に違いない。
「まさか」
父のことを聞いたとたん、将の口調が吐き捨てるようになった。
「アイツは、俺のことなんか、昔っからほったらかしだったし」
「……そうかなあ」
聡は首を傾げるだけにした。確執が強そうな将とその父親の関係。
あまり強く否定すると将を傷つけるかもしれないと思ったのだ。
だが、聡は将は父に愛されていないわけがない、と思う。
しかし、わが子を愛していない親が、ああやって自分の子供を写真に大量に撮るだろうか。
「子供の頃はママハハに任せっきりで無視だし。ちょっとグレたら厄介払いしようとするし。……で、今度は跡を継げ、東大に合格しろ、だろ。自分のメンツしか考えてねーの。あのオヤジはよ」
将の口調は……食べながらビールを飲んだせいか、だんだん激しくなっていくようだ。
「でもね、将」
聡は、将の気持ちを傷つけないように、反論を試みる。
さりげなさを演出するために、食器を洗う手元に視線は落としたまま。
「それは違うんじゃないかな……。お父様だって、将のことを思って」
「思ってねーよ!」
聡はハッとして顔をあげた。キッチンカウンターに両腕をついて将がこちらを睨んでいる。
次の瞬間、将はハッとして視線を下に落とした。
強く言いすぎたことに、すぐに気付いたらしい。
「ごめん」
睫のあたりに、寂しさを残してくるりと背を向けた将は、コップに差してあった南天を手にとる。
実家から持ってきた重箱の中にあしらってあったものだ。
そしてその赤い実をぷち、ぷちと枝からちぎりながら、背中で言葉を続ける。
「仮にさ……。子供のことを思ってるにしてもさ。ちゃんと可愛がってることが伝わってなきゃ、何も思ってないのと一緒だろ」
それは違うと聡は思う。
ただ可愛がるだけが親の愛情ではない。
可愛がる以上に……厳しさは、親だからこそ注ぎうる愛情なのだ。
きっと将の父親だって、将の器量や才能を信じていたから厳しく接したのだろうし、悪の道からなんとか救い出したくて……それが『厄介払い』に見えたこともあったのだろう。
具体的なことはあまり知らないけれど、聡はきっとそうだと思う。
だけど、具体的なことを知らない聡が、いくらそう諭してもそらぞらしいばかりかもしれない。
現実に、将は寂しかったのだ。
そんな寂しい思いは、自分の子にはさせたくない……そう思うに至った将の寂しさが、聡の心に突き刺さった。
聡は食器を洗うのをやめて、将の隣に寄り添うと肩にすがりついた。
「アキラ……」
何も言わなかったが、聡の温かさは将をすっぽりと包んだ。
しばらく、そのまま不動だった将だが……やがて、発作のように聡をきつく抱きしめた。
手の中の赤い実が床に一斉に転がった。