勉強が一段落ついて、鉛筆を置いた将は、窓ガラス越しに通りをうかがった。
さすがに夕方に差し掛かったせいか、ここから記者の姿は見えない。将はほっとため息をついた。
今朝は朝のワイドショーかテレビカメラまでやってきて、大変な騒ぎだった。
おかげで、小学校の登校時間にさしかかった孝太は、裏口から直接ガレージに行くハメにさえなったほどだ。
喉が渇いた将は、階段を降りた……キッチンには家政婦さんがいる。
孝太の小学校で父兄会があるとかで、純代は出掛けたのだ。
名門私立だけあって、たびたび父兄会が催されるらしい。
「将おぼっちゃま、お茶になさいますか? それともおジュースで?」
家政婦さんは将に素早く気付くと、気を遣った。
本当は自分で淹れたかったが、かえって面倒なので『紅茶。ダージリン』と頼んだ将は
「で、まだ、いるの?」
と玄関のほうを顎でしゃくった。記者連中がまだいるか、という意味だ。
家政婦さんは大げさに眉根を寄せた。
「さっきは午後のワイドショーで玄関が映ってましたのよ。おかげで騒がしいこと騒がしいこと」
「ふーん」
将は再び、そこにあった新聞をめくると、あらためて自分の記事の見出しをマジマジと眺めた。
ドラマの初回放送日は、もうあさってだ。
確かに、テレビ局にとってはいい宣伝になるんだろうな、と将はため息をついた。
この段階で……将は、週刊誌の記事そのものは目にしていなかったのである。
「ね。緒方さん」
薫り高いダージリンの紅茶を運んできた家政婦に、ふと思いついて将は声を掛けた。
「この週刊誌、買ってきてくれない?」
「おぼっちゃま、そんな雑誌。お勉強の邪魔になりますよ」
家政婦は、眉をひそめた。
「自分のところを見るだけだからさ。……やっぱ、どんなことが書いてあるか気になるじゃん。ね?」
家政婦は「でも、まだ記者の人が……」などとさんざんごねた末に、ようやく買いにいってくれた。
その週刊誌をリビングのソファでめくった将は……思わず立ち上がった。
転がるようにして階段を駆け上がり、携帯を掴み、聡の番号を押す。
つながるまでの間、血の気がザーッと音をたててひいていくのを感じた。
ヤバい。
聡に見られて困るのは、大きいほうの……○○谷詩織との2ショット写真ではなく。
むしろ、それに重ねられるようにしてあった、小さい方の写真……つまり、みな子とのキス写真だった。
みな子の顔は隠れているが、あの日、聡はみな子の振袖を見ている。
モノクロ写真でもたぶんわかってしまうだろう――。
体中がドクン、ドクンと揺れる中、コトリ、と回線がつながった。
『この電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため……』
という無機質なメッセージ。
もう一度掛けなおす。結果は同じだった。
将は唇を噛み締める。……あとは祈るしかない。
――どうか、あの記事を、聡が目にしていませんように。
と、ふいに、置いた電話が鳴って、将はびくっと身体を震わせた。
みな子だ。
週刊誌の件だろうか。
将は恐れながらも……なかば覚悟を決めて通話ボタンを押した。
「みな子……」
「大変なの」とみな子の開口一声が将が呼びかけを遮った。
もしもし、も言わなければ将の名前もよばなかった。
みな子は、周りを意識しているのか、ひそめた声で、続けた。
「アキラ先生が、さっき、救急車で運ばれていったの」
将は、高いところから突き落とされたような錯覚を覚えた。
――聡、しっかりせい!
右手が温かいものに包まれているのに気付いた聡の意識は、ようやく暗いところから明るいところに浮上して……ふいに現実に戻った。
瞼を開けたものの……視界はまだ、ぼんやりしている。
誰かが聡を見守っているのはわかるが、それが誰か、おぼろげな輪郭しかわからない。
「聡、気がついたか」
声の主は、聡の右手を握りなおした。
この手の感触は、声は、将ではない。でも、どこかで聞いた……聞きなれた声。懐かしい声。
焦点はゆきつ戻りつして、ようやく合った。
そこにいたのは……高校のときに仲がよかった同級生の秋月泰雄だった。
聡の右手をしっかりと握り締めていてくれたのは、秋月だったのだ。
「秋月……」
聡は、秋月がどうしてここにいるのかわからなくて、とまどった。
次の瞬間。重要なことを思い出して、ガバ、と跳ね起きる。
「赤ちゃん!」
「聡! 大丈夫やけん!」
秋月に制される前に、聡は自分のお腹のふくらみを確かめる。
まだ、ある。
「赤ちゃんは?……赤ちゃんは大丈夫なの?」
「大丈夫やけん。落ち着いて。ちゃんと生きちょう……まだ点滴中なんやけん、寝とらな」
秋月は聡の肩をそっと包むように支えると、優しくベッドに横たえた。
「胎盤が少しずれてるんやって。それで溜まった血が一気に出ただけっちゃ」
「胎盤が……」
「そ。でも、ちょっとだけやけん、問題ないって。それと貧血」
「貧血……」
「聡、昔からよく貧血おこしちょったやろ」
秋月は聡の顔の真上で笑顔を見せた。それでようやく落ち着いた聡は、問うことができた。
「秋月……、どうして、ここに?」
「萩の観光PRで昨日から来ちょう……。今日は、少し時間ができたけん、聡に会いに来たんやけど……びっくりさせるなよ」
秋月は冗談めかして笑った。
「ごめん」
「でもよかったよ……」
秋月の言葉はそこで止まり、傍らの椅子に腰掛けた。
あきらかに、それを訊きたくて……でも、本調子じゃない聡の手前、我慢している。
聡の顔と膨らんだお腹とを交互に見比べる秋月の視線で、それは聡にもよくわかった。
そう、秋月は昔から、優しかった。
でも……自分からそれを言い出すのを憚られた聡は、少し秋月の優しさに甘えることにした。
「わざわざ、観光のPRで東京に?」
「そ。知っちょう?東京には萩大使館てのがあって……」
秋月はしばらく、萩の観光PR戦略などを面白可笑しく話してくれた。
ちなみに旅館のほうは、正月が終わって一段落したとのことで、妻の綾と両親でなんとかなっているらしい。
こうやって話している秋月は、大人の様で……生き生きしている瞳は、高校生の頃と変わらなかった。
中学3年から高校3年まで一緒のクラスだったあの頃と。
「ね。高校んときも、秋月……こうやって付き添ってくれたよね」
「ん。保健委員だったしな」
聡が持ち出した思い出話を、秋月はすぐに思い出したらしい。
あれは、高3の6月だった。じめじめとした……梅雨の頃。
貧血を起こして倒れた聡は、保健室にかつぎこまれたのだ。
同じ思い出を、すぐに取り出せる人がいる。聡は、心がほんのり温かくなった。
倒れた聡を、保健室で見守る秋月。
聡が一番いてほしかった……当時、付き合っていた東悠樹はいない。
……聡ではない女生徒と相合傘で校門を出る東を……聡は目撃してしまったのだ。
生理中だった聡は、目の前が真っ暗になって……倒れた。
「そのあと、東と秋月が大喧嘩してたって聞いた」
「ああ……知っとったん。恥かし」
秋月は照れて首の後ろに手をやった。そんな仕草をすると高校時代の面影がより色濃く出る。
聡と付き合っているくせに、他の女に手を出した東を怒って、秋月と東はとっくみあいのケンカになったのだ。
かたやサッカー部の人気者。かたや市内……いや山口中に名前が知れたバンドのイケメンベース。
幸い先生が来る前に、まわりの者が止めたが、そんな二人のケンカは学校中の噂になった。
「でも、あのあとまた、うまくいったんやろ。俺バカやー」
秋月は明るく笑った。
聡は何も言わずに微笑んだ。
本当は……もうとっくに聡と東はダメになっていた。
二人の気持ちは離れたまま、卒業まで惰性で……抱き合っていたにすぎない。
3年になって私立クラスと国立クラスに別れた時点で、早くも聡はそれを予感していたのだ。
それでも、それをはっきりと目にしたあのとき、聡の心で何かが割れたのだ。
……ぽろり。
予期せず、涙が転がり落ちた。涙は目じりを伝って、耳の後ろに流れていった。
あのときの記憶と、何かが重なって……現実の聡に涙を押し出させたのだ。