「ちょっと出かけてくる」
家政婦が気がついたとき、すでに将はダッフルを引っ掛けながら玄関に向かっていた。
「だめですよ! お坊ちゃま、まだ記者が……」
「いい」
止めようとする家政婦を短い言葉で無視すると、将は玄関でバッシュを履き始める。
「だめです。私が叱られてしまいます」
立ち上がる将に、泣きそうな声で家政婦が引きとめようとしたそのとき。
玄関のドアが開いた。
純代だった。
ちょうど父兄会が終わって帰ってきたらしい。
ブランド物のスーツを着て、髪を巻き上げた純代は、ちょうど玄関にいた将に驚いて目を見開く。
「何事?」
「……奥様、止めてください。お坊ちゃまが、今から出かけると……」
家政婦は純代の姿を見てほっとしたのか、手をあわせるようにして、懇願した。
「将」
純代は将を見上げた。……自然に前に立ちはだかる格好になる。
「聡が倒れた。見舞いに行かなくちゃ」
将は早口で説明すると、純代の脇をすり抜けようとした。
「お待ちなさい」
純代はあわてて、手を広げる。
「行かせてくれ……。行かなくちゃいけないんだ」
「だめよ。将、落ち着きなさい」
将は純代を交わそうとさらに横へ行こうとする。純代もそれを防ごうと動く。
まるでバスケのディフェンスとオフェンスのような攻防になる。
純代はついに、突っ張り棒のように手をかけて、ドアの前に立ちはだかった。
「行かせてよ!頼む!」
その手を力まかせにはずそうとした将だったが、次の瞬間、玄関に派手な音が響き渡った。
家政婦が思わず口に手をあてる。
将は……紅くなった頬に思わず手をあてて、呆然としている。
……純代が、将の頬を思い切りはたいたのだ。
「落ち着きなさい!将!」
純代の鋭い声が、玄関に反響する。
「こっちへ、来るのよ!」
純代は呆然とする将の手を引っ張ると、孝太のピアノ部屋に引っ張り込んだ。
……このことが家政婦の口から他に広まるのを危惧した純代は、冷静に行動したのだ。
防音を施してあるこの部屋の扉を閉めてしまうと、純代は将に向き直った。
「……あなたが今出て行って、聡さんのところに行ったら、どんな騒ぎになるかわかっているの?」
声を落としながらも、純代は将の瞳をまっすぐに見つめて続ける。
「聡さんのことが、バレたら、あなたはもちろん大変なことになるけど……。いまは聡さんのほうにむしろ迷惑がかかるのよ」
「でも!」
将は、叫んだ。あの週刊誌の記事の弁解……否、自分の過ちの弁解を……直接逢って話さないと……。
しかし、将はそれを……自分のしでかした聡への裏切り行為を、まさか純代に口にすることなどできない。
純代は、なおも続ける。
「教え子の子供を妊娠した教師なんて……世間のバッシングを一身に受けるのは、むしろ聡さんのほうなのよ。……将、あなたは世間の恐さをわかってない」
叩かれた頬は、じんじんとしている。
その痛みは……1年以上前、聡に叩かれたときとそっくりだった。
将はうなだれた。唇を噛み締める。痛いほどに。今はそんなことでしか自分を罰することができない自分。
「……聡さんのことは、私もさっき聞いたわ。……私に任せなさい。明日、病院に行ってくるから」
純代は、将の背中にそっと手を添えた。
「将、……あなたは、今は、センター試験のことだけを考えなさい。……それが、聡さんのためなのよ」
――アキラ、アキラ!
許してくれ。俺を見放さないでくれ。
噛み締めた唇は……いつしか血が滲んでいたが、そんな痛みはどうでもよかった。
聡が離れてしまう痛みは、きっと将を死に至らしめるに違いない。
将が怖いのはそれだけだった。
「聡?」
秋月が……聡の涙に気付いた。
「どうしたん……?」
優しい声に聡は、ハッとする。
何でもない、と言いかけてやめる。
あとからあとから湧き出てくる涙。どう見ても何でもない状態ではない自分。
東と、将は違う。
東とのつらい思い出に、無意識に今の将を重ねている自分に気付いた聡は、自分に必死で言い聞かせる。
だけど理性は、あの頃の東と、将がほぼ同じ年齢であることを聡に気付かせる。
……断じて違う。だけど、裏切りの記憶は聡の心の一番柔らかいところから、知らず涙をこぼさせてしまっていた。
「大丈夫か。……つらいことがあるなら、吐き出しちゃえよ」
秋月は、聡が思い出に涙したのではないことを察したらしい。
「うん……。大丈夫……。ありがとう」
言葉だけでは信じられないだろうと、聡は泣いたまま微笑んで見せた。
だけど涙は止まってくれない。
「聡……、結婚してないんやろ」
秋月はとうとう、核心に触れ出した。
聡が旧姓のままであることは……聡が持っていた母子手帳を見れば一目瞭然だ。
このまま我慢してしまう聡を見かねての、優しいつっこみ。
目をきゅっとつむった聡に、秋月はさらに続けた。
「あのコか。去年、萩まで来た……」
否定しなくては。聡が目をあけたときにはもう遅かった。
秋月は、確信を持って聡の眼が開くのを待ちかまえていた。
「鷹枝ってコが……相手なんやろ」「言わないで」
とっさにそう言うのがせいいっぱいだった。
「言わないで……。学校にも、うちの親にも……内緒にしてるの。だから絶対に言わないで。名前を口にするのもやめて」
聡の必死の表情に、秋月はややたじろいだようだった。
「鷹、いや……相手は、知っちょうと……」
聡は深く頷いて、秋月の表情に浮かぶ、将への非難の色を弱めようとした。
「知ってる……。生んでほしいって……。一緒になろうって、言ってくれた……。親ごさんを説得するために……無理して東大を目指してる……」
そうやって将をかばう自分は……やはり将を愛している。
朝から一連のつらい状況の中で忘れかけていた将への愛。
しかしそれに気付いたからこそ、聡は目を伏せる。
「だけど……」
言いかけた聡だったが、再び涙がこみあげてきて、言葉に出来なかった。
秋月は黙っていた。
それ以上は言わなくても、理解したようだ。
わかっている。わかっているから自分を責めるのはやめろ。……そんな言葉の代わりに聡の額をそっと撫でる。
それは、懐かしい感触だった。
帰国子女だった聡。『気取っちょう』と女子から無視されて……こっそりと泣いていた中3の。
『泣くな。お前はいっちょん悪くない』
と撫でてくれたあのとき。
「秋月……。優しいよね」
「今ごろ気付いたか」
秋月は掌を聡の額から髪へと往復させながら、口の端をいたずらっぽく上げた。だけど瞳はこれ以上ないほど優しい。
「あたし、……なんで、秋月と付き合わなかったんだろ」
聡は鼻を啜りながらも、秋月の冗談に応えて微笑んだ。
「……ホントや。聡は男を見る目がないな。……バーカ。聡のバーカ」
秋月の口調は、十代の頃のそれに戻った。
そしておもむろに額から手を移動させると、頬っぺたを柔らかくつまんだ。
「変な顔ー」と子供のように笑う。
「ひっどーい。綾さんに言いつけてやる。お宅のダンナさんがいじめましたって」
聡も子供のように応酬して見せた。
「最悪」
秋月が聡を元気付けようとしてくれているのがわかる。
その温かさに聡はようやく心から笑うことが出来た。
「卒業式が終わったら……学校は辞めるんだろ」
しばらくして……完全に聡の涙が止まったのを見届けた頃、秋月は話題を控えめに戻した。
「うん」
「そのあと、どうすんの。どこで、産むの」
「……さあ。どうなるのかな」
聡は、視線を天井に遊ばせた。今からたった半年以内のことなのに。もう今年のことなのに。
聡は見当がつかなかった。……将とはどうなっているのだろう。
ちくりと、今朝からの痛みを思い出す。
「そしたらさ、萩に帰ってこいよ」
意外な提案に、聡は視線を秋月の顔に戻す。
「仮にさ。東大に合格したからといって、すぐに一緒になれる……ってわけじゃないんやろ」
秋月は、聡を慮ってか、慎重に言葉を選びながら、現実問題を恐る恐る持ち出した。
完全に落ち着いた聡ではあるが、気遣ってくれる秋月の気持ちが嬉しい。
「将は……、そのつもりでいるみたいだけど。無理よねー」
その気持ちに応えようと、聡はまるで他人事のように、語尾を延ばしてみせた。
「……あいつのオヤジさん、今年の総裁選候補だろ」
秋月がもたらしたのは、聡の頭から抜け落ちていた事実だった。
聡の脳裏に、将の父親の……康三の顔がサブリミナルのように蘇る。