第340話 スキャンダル(5)

秋月は、聡の様子がなんとか安定したのを見届けると、「あまり無理するなよ」と帰って行った。

出血自体も、安静にしていればいずれ止まるとのことで、聡は数日間入院することになった。

「生徒たちの大事なときに、ついていてやれなくて……本当に申し訳ありません」

聡は病室から学校に電話をかけた。

大事なとき、というのは今週末のセンター試験のことである。

聡がいる病室はホテルの一室のような個室である。もちろん、携帯電話もOKだ。

持っていた母子手帳から、いつも健診に来ている病院――将の義母・純代の紹介である――に運ばれていたのだ。

電話に出た学年主任の多美先生は、赤ちゃんが無事だったことをまず喜んでくれた。そして

「アキラ先生も大事なときですから。体一番でよく休んでください。英語の授業のほうは、荒江学園グループから非常勤の先生をまわすそうですから、心配いりません」

と気遣ってくれた。

電話を切ると、ちょうど夕食が運ばれてきた。

運んでくれるのが看護士なだけで、内容はちょっとしたレストランのような豪華さだ。

自然食を取り入れた野菜中心の食事は、目にも美しく、妊娠中でも食べやすいように工夫されている。

印刷された品書きまで添えられているという凝りようだ。

……しかし、聡は半分食べるのがせいいっぱいだった。

「御口にあいませんでしたか?……それともおなかの調子が悪いんですか?」

片付けにきた看護士が心配そうな顔をする。

「いいえ。すごく美味しかったんですけど、まだお腹がすいてなくて……」

聡は食欲のない言い訳をした。

妊産婦専門で内科医や精神科医なども常勤しているこの病院である。

うっかり食欲がない、などと言えば、医師を交えてカウンセリングだの、いろいろとややこしくなる。

それに診察されなくても、聡は自分が食欲のない原因がわかっていた。

 

看護士が食卓をすべて片付けてしまうと、病室は静寂に包まれた。

暖色でまとめられた病室に、間接照明が、夜になっても温かい雰囲気を作り出している。

テレビも付けずに、聡は横たわると、お腹を確認する。

張り止めを投与されているせいか、さっきのように張ってはいない。

――よかった。

聡は、お腹をなでながら、胎児が無事だったことに再度ほっとする。

と、まるでお腹の胎児が指し示したように、聡はサイドテーブルの上の携帯が気になった。

それは、さっき学校に掛けるまで、授業中のまま、電源を切ってあった。

吸い寄せられるように手に取ると、無意識に指は、メールをチェックし始める。

案の定、受信箱は将の名前で埋め尽くされていた。

>倒れたこと聞いた。大丈夫だよね? このメール見たらすぐ連絡して。

>赤ちゃんは無事だよね。電話かメールちょうだい

>聡、無事だったら、すぐに連絡して。メールでもいいから

>心配してる。心配で、心配で、勉強が手に付かないよ。これ見たらカラメールでいいから返信して

>メール、ちょーだい。

……

メールは聡が倒れた少しあとから10回にわたって入っていた。

将の動揺と心配が目に見えるようなだった。

その中で、最後の1回だけが少し違っていた。

>もしかして、怒ってる? ごめん。いろいろごめん。だけど、俺を信じて。お願いだから電話ください。

短いメッセージを繰り返し眺めながら、聡は、さっきの悲しさが少しだけ癒される気がした。

はっきりと書いてはいないが、将は週刊誌の記事のことを……みな子とのキスのことを、謝っているのだろう。

将は……自分を見捨てたわけではない。心のすべての部分がどこかに移ってしまったわけではないようだ。

それどころか、この文面からは将が、聡の許しを……聡からの連絡を待ちこがれていることがうかがえる。

今週末がセンター試験なのに、勉強に手がつかないほど、聡を心配している。

そんな将が、聡は逆に心配になった。

しかし、聡は……電話をすることができなかった。

ひとこと『心配しないで。赤ちゃんも大丈夫だから。将を信じてるから』と自分の声で伝えられればと思う。

だけど、ひとたび電話して……将の声を聞いたら。

聡は自分自身の感情を抑える自信がもてなかった。

――どうして、こんな記事になってしまったの?

――どうして、○○谷詩織と二人きりで車に乗る必要があったの?

――どうして……星野みな子にキスなんかしたの?

将を問い詰めて……責めたててしまう自分は容易に想像できた。

電話越しとはいえ、声をたてて泣いてしまうかもしれない。

18歳の将には……同い年のみな子や、3つ違いの詩織のほうが、聡よりふさわしい……。

そして、教師と生徒でもない。つまり、立場を気にする必要もない。

いつも抱えてきた不安。不発弾のように忘れていた不安は……スキャンダル記事という起爆剤を得て爆発寸前に成長してしまっている。

そんな今、きっと将の声を聞いたら、一気に爆発してしまうかもしれない。

静かな病室にいることで、今はそれをかろうじて皮ふの下に抑えているけれど……。

そんな危うさを抱える一方で。

あんな記事を見ながらも、……そして、もっと言えば、みな子とのキスを目撃しても。

聡の本心の深いところでは、将をまだ、信じていた。いや、信じたいといったほうが正しいかもしれない。

なぜなら……いままでに将は、聡への気持ちを偽ったことだけは、ないからだ。

なのに、聡の気持ちは、冷たい湖底から浮かび上がれない。

 

メールを見直す。

きっと、今の瞬間も……将は勉強が手に付かず、聡からの無事の知らせだけを待っているに違いない。

文面の向こうにその姿が透けて見えるようだ。

聡は、迷った挙句、親指を動かした。

>頑張って。

将と聡の今後がどうなるにしても。

とにかく、将は今、頑張らなくてはならない。聡との道を開くため……いや、将自身のために。

本当は……聡自身は、将との未来は、混沌とした中に消えかかっている気がしていた。

もうだめ、かもしれない。そんな絶望の姿さえ目にした気がする。

それゆえに……将の気持ちを信じていても、聡の心は沈んだままだったのだ。

だけど。

もし……仮に、二人の将来が別々のものであっても。

将には幸せになってほしい。成功してほしい。

今週末の試験は、その第一歩なのだ。

聡は……たった一言に言い尽くせぬ万感の思いを込めて、送信ボタンを押した。