第408話 最終章・また春が来る(16)

「お母さん。鷹枝総理よ」

陽にうながされて、聡が顔をあげた。

最初、とまどっていたような瞳が、何かを覚悟したように力が入るのがわかった。

覚悟に光る黒い瞳が、あらためて将に向けられる。

「ご挨拶が……遅れました。総理就任おめでとうございます」

聡は『恩師』として、ごく自然に頭を下げた。

深々とこうべを垂れたうなじのあたりが……若い頃よりいっそう細くなっている。

それに気をとられそうになりながらも、

「ありがとうございます。先生も、お元気そうで」

三島たちの手前『教え子』としての態度を、将はなんとか保つことができた。

演説する時よりも、緊張しているのが、自分でもわかる。

「お席のご用意ができています。さあ、どうぞ」

給仕長がにこやかに個室のダイニングへと案内する。

「陽……。あなたにとって大事な人って……」

そのすきに、聡もまた陽に小声で問いかけた。

「私にとっても大事な人でしょう?」

振り返った陽は、微笑みを母に向けた。

その微笑みは、優しげだけれど絶対的で……聡は娘に向かって何もいえなくなった。

 
 

ダイニングテーブルをはさんで、二人は無言だった。

陽は、二人が席に着くのを見届けると、仕事があるからと立ち去ってしまった。

ドアを隔てた待合室には、秘書の三島やSPも控えているが、このダイニングには将と聡だけである。

聡は病み上がり、将もまだこれから公務があるということで、グラスに注がれたのはペリエである。

それでも将は

「せっかくですから、乾杯しましょうか。先生」

と目をあげた。

「ええ」

それでようやく聡も、儀礼的ではあるけれど……小さく微笑んだ。

「先生のご快復に」

「鷹枝くんの総理就任に」

二人はグラスを掲げた。

ダイニングのテーブルは、一流レストランの最高の部屋だけあって大きく……18の誕生日のときのように、シャンパンフルートがかろやかな音を鳴らすこともない。

もしも――向かい合う二人が昔のような関係だとしてもテーブルの上で互いに手を取り合うこともできないだろう。

そんな物理的な距離よりも、二人を隔てているのはそれぞれの25年という歳月である。

それでも、万感の思いを抱えているのは二人とも同じだった。

長いこと隔てられていたひとが、今、目の前にいるのだから……。

 

「前菜の、フォアグラと柔らかく煮た蕪のミルフィーユでございます」

給仕長自ら、前菜を運んできた。

フォアグラには春らしく菜の花があしらってある。

「……あのときを思い出しますね」

二人を隔てる、薄い膜のような沈黙。それを破るべく、将は努めて明るい声を出してみる。

初秋の海でびしょぬれになるまで遊んだあと、二人がはじめて、ここにやってきたとき。

塩でバリバリに固まったみっともない二人にもかかわらず、デギュスタシオンでオーダーした。

その前菜の1つが、フォアグラと柔らかく煮た大根をあわせたものだった。

『あのとき』という単語に、将は祈るように思いを込める。

目の前にいるひとが、それを覚えていれば……と。

覚えていたからといって、どうなるというわけでもない。

それはわかっているけれど……将は、何かの願いを込めるように聡の答えを待った。

「ええ」

聡はカトラリーを手にしたまま、皿の上に伏せていた視線を、いったん将の顔にあげた。

その視線は将のそれにからめとられて、動けなくなる。

「……よく覚えているわ。あのときは、大根だった」

やっぱり、聡は覚えていた。

ワインを飲んだわけでもないのに、将は胸の奥が熱くなった。

同時に、せつなさがこみあげてくる。

26年、いやあれは17才のときだから27年前にもなる。

長い年月を経ても……そんな些細なメニューですら覚えている。お互いに。

なのに、どうして――。

二人はここまで隔たってしまったのだろうか。

もう、戻れないことはわかっているのに。

ふいに将は、25年前、自分を捨てた聡に取りすがりたい衝動にかられた。

お互いにかけがえのない存在だったのに。

どうして、捨てることができたのか。

思いは、どんどん記憶の深みへと降りていくのに、総理としての将は、如才なく話を取り繕っている。

――「兵藤くんの店に、陽さんと一緒に、いったそうですね。とても喜んでました」

――「井口に孫ができるのをご存知ですか?」

二人の『関係』に触らないように、さも懐かしげに交わす思い出話。

そんなものを交わしながら、将の中でもどかしさがつのる。

こんなことを話したいわけではない。

――自分の25年を伝えたい。そして聡の25年を知りたい。

少し逡巡したのち、やはり将は、思いきることにした。

このまま、表面だけの挨拶を交わし合って別れてしまうことは、できない。だから。

「陽さんから、お話をうかがったときはびっくりしました」

将はさりげなく、話題を核心に近づけてみた。

聡は、黒目がちの瞳に微笑みを浮かべたまま、『お話』が何を指すのか慎重に考えているようだ。

聡が答えられないのは無理はない。

そういった将も……漠然といろいろなことを指していたからだ。

食事の席で、聡の病気の話をするのはあまりに不調法というものだし、かといって陽が自分たちの娘だった、という話も……総理としての態度を崩すきっかけをつかめない将としては、唐突すぎる気がする。

「陽さんは……4月生まれなんですね」

25年前の――本題に近い時点の話を取り出す。将の真意を感じたのか、聡の瞳が再び見開かれた。

「先日、テレビの収録でお会いした際に、プロフィールを拝見したんです。……確か、予定日は5月でしたよね」

将だから知っている、本来の陽の誕生日。

聡はカトラリーを置いた。そっとため息をついたのが、胸元の動きでわかる。

「……1ヶ月、早産したんです」

低い声でゆっくりと話す声は、少し苦しげだった。

「その陽さんの、誕生日に」

聡の言葉の後に、将はすかさず続ける。

「僕は、ようやく目覚めたんです……意識不明の状態から。……目覚めるまで僕は、知らなかった」

聡の瞳はせつなげに見開かれている。

将はそれに訴えかけるように続ける。

「まさか、あなたが僕を捨てていたなんて」