「お母さん。鷹枝総理よ」
陽にうながされて、聡が顔をあげた。
最初、とまどっていたような瞳が、何かを覚悟したように力が入るのがわかった。
覚悟に光る黒い瞳が、あらためて将に向けられる。
「ご挨拶が……遅れました。総理就任おめでとうございます」
聡は『恩師』として、ごく自然に頭を下げた。
深々とこうべを垂れたうなじのあたりが……若い頃よりいっそう細くなっている。
それに気をとられそうになりながらも、
「ありがとうございます。先生も、お元気そうで」
三島たちの手前『教え子』としての態度を、将はなんとか保つことができた。
演説する時よりも、緊張しているのが、自分でもわかる。
「お席のご用意ができています。さあ、どうぞ」
給仕長がにこやかに個室のダイニングへと案内する。
「陽……。あなたにとって大事な人って……」
そのすきに、聡もまた陽に小声で問いかけた。
「私にとっても大事な人でしょう?」
振り返った陽は、微笑みを母に向けた。
その微笑みは、優しげだけれど絶対的で……聡は娘に向かって何もいえなくなった。
ダイニングテーブルをはさんで、二人は無言だった。
陽は、二人が席に着くのを見届けると、仕事があるからと立ち去ってしまった。
ドアを隔てた待合室には、秘書の三島やSPも控えているが、このダイニングには将と聡だけである。
聡は病み上がり、将もまだこれから公務があるということで、グラスに注がれたのはペリエである。
それでも将は
「せっかくですから、乾杯しましょうか。先生」
と目をあげた。
「ええ」
それでようやく聡も、儀礼的ではあるけれど……小さく微笑んだ。
「先生のご快復に」
「鷹枝くんの総理就任に」
二人はグラスを掲げた。
ダイニングのテーブルは、一流レストランの最高の部屋だけあって大きく……18の誕生日のときのように、シャンパンフルートがかろやかな音を鳴らすこともない。
もしも――向かい合う二人が昔のような関係だとしてもテーブルの上で互いに手を取り合うこともできないだろう。
そんな物理的な距離よりも、二人を隔てているのはそれぞれの25年という歳月である。
それでも、万感の思いを抱えているのは二人とも同じだった。
長いこと隔てられていたひとが、今、目の前にいるのだから……。
「前菜の、フォアグラと柔らかく煮た蕪のミルフィーユでございます」
給仕長自ら、前菜を運んできた。
フォアグラには春らしく菜の花があしらってある。
「……あのときを思い出しますね」
二人を隔てる、薄い膜のような沈黙。それを破るべく、将は努めて明るい声を出してみる。
初秋の海でびしょぬれになるまで遊んだあと、二人がはじめて、ここにやってきたとき。
塩でバリバリに固まったみっともない二人にもかかわらず、デギュスタシオンでオーダーした。
その前菜の1つが、フォアグラと柔らかく煮た大根をあわせたものだった。
『あのとき』という単語に、将は祈るように思いを込める。
目の前にいるひとが、それを覚えていれば……と。
覚えていたからといって、どうなるというわけでもない。
それはわかっているけれど……将は、何かの願いを込めるように聡の答えを待った。
「ええ」
聡はカトラリーを手にしたまま、皿の上に伏せていた視線を、いったん将の顔にあげた。
その視線は将のそれにからめとられて、動けなくなる。
「……よく覚えているわ。あのときは、大根だった」
やっぱり、聡は覚えていた。
ワインを飲んだわけでもないのに、将は胸の奥が熱くなった。
同時に、せつなさがこみあげてくる。
26年、いやあれは17才のときだから27年前にもなる。
長い年月を経ても……そんな些細なメニューですら覚えている。お互いに。
なのに、どうして――。
二人はここまで隔たってしまったのだろうか。
もう、戻れないことはわかっているのに。
ふいに将は、25年前、自分を捨てた聡に取りすがりたい衝動にかられた。
お互いにかけがえのない存在だったのに。
どうして、捨てることができたのか。
思いは、どんどん記憶の深みへと降りていくのに、総理としての将は、如才なく話を取り繕っている。
――「兵藤くんの店に、陽さんと一緒に、いったそうですね。とても喜んでました」
――「井口に孫ができるのをご存知ですか?」
二人の『関係』に触らないように、さも懐かしげに交わす思い出話。
そんなものを交わしながら、将の中でもどかしさがつのる。
こんなことを話したいわけではない。
――自分の25年を伝えたい。そして聡の25年を知りたい。
少し逡巡したのち、やはり将は、思いきることにした。
このまま、表面だけの挨拶を交わし合って別れてしまうことは、できない。だから。
「陽さんから、お話をうかがったときはびっくりしました」
将はさりげなく、話題を核心に近づけてみた。
聡は、黒目がちの瞳に微笑みを浮かべたまま、『お話』が何を指すのか慎重に考えているようだ。
聡が答えられないのは無理はない。
そういった将も……漠然といろいろなことを指していたからだ。
食事の席で、聡の病気の話をするのはあまりに不調法というものだし、かといって陽が自分たちの娘だった、という話も……総理としての態度を崩すきっかけをつかめない将としては、唐突すぎる気がする。
「陽さんは……4月生まれなんですね」
25年前の――本題に近い時点の話を取り出す。将の真意を感じたのか、聡の瞳が再び見開かれた。
「先日、テレビの収録でお会いした際に、プロフィールを拝見したんです。……確か、予定日は5月でしたよね」
将だから知っている、本来の陽の誕生日。
聡はカトラリーを置いた。そっとため息をついたのが、胸元の動きでわかる。
「……1ヶ月、早産したんです」
低い声でゆっくりと話す声は、少し苦しげだった。
「その陽さんの、誕生日に」
聡の言葉の後に、将はすかさず続ける。
「僕は、ようやく目覚めたんです……意識不明の状態から。……目覚めるまで僕は、知らなかった」
聡の瞳はせつなげに見開かれている。
将はそれに訴えかけるように続ける。
「まさか、あなたが僕を捨てていたなんて」