「美味しい! お母さんのオムライスはやっぱり違うね!」
まだ9つのくせにいっぱしの口をきく了だったが、ほっぺたにケチャップがついている。
「ほら、ついてる」
笑ってそれを優しく拭き取ってやりながら。いつもと同じ明るい母を演じながら。
香奈の頭からは将のことが離れることはない。
25年もの間、忘れられなかった恋人と再会して……将はどうするのだろうか。
再会の瞬間に近づけば近づくほど、香奈の心は不安に曇っていく。
もしかして……将はこのまま家族を捨ててしまうかもしれない。
ありえない、と打ち消そうとすればするほど、逆に不安は強まっていく。
『いなくなったら死んでしまう』
つまり彼女の存在が自分のすべてであると言った18才の将。
その彼女が帰ってきて。
しかももうすぐ、再びこの世とあの世に永遠に別れてしまうと知って。
夫は……もしかして彼女のもとに走るのではないか。
目の前でにこにことオムライスを食べる了を見つめることで、香奈はその不安を打ち消そうと試みた。
香奈に似ているといわれる了だが、口元は将に似ていると香奈は思う。
長男の海などは、将そのものだと、義母の純代はよく言う。
自分によく似た二人の息子を、夫はこよなく愛してきたではないか。
25年前の恋人と、息子たちを天秤にかけることじたい、ありえない。
香奈はそう自分に言い聞かせるが、不安を消すにはまだ足りない。
不安材料を取り除こうとやっきになった香奈は、そうだ、と思い出す。
将は総理大臣だ――。まがりなりにも国政の頂点にたつ人間だ。
もしも家族を捨てて恋人の元に走ったりしたら……世間は大騒ぎだ。
騒ぐだけでなく、それをきっかけに将に追い落とされた勢力から糾弾され、将は国政の改革半ばで総理大臣を辞職することになるだろう。
曾祖父の遺言をも途中で投げ出すなど、ありえない。
やっと安堵材料を見つけて一息ついたものの……将が自分と家族を捨てない根拠に、仕事や世間体という要素を考えいれないともはや安心できない自分の立場の危うさに、香奈は思わず奥歯を噛みしめる。
「お母さん、どうしたの? どっか痛いの?」
気がつくと了が心配そうにこちらを見ている。
わが子に心配をかけるなんていけない。香奈はあわてて笑顔でとりつくろう。
「ううん。なんでもない。ちょっと……塩の粒粒が残ってたの」
「じゃ、お水くんでくる!」
了は香奈のコップを取ると冷蔵庫へと走る。
人のことを気にかける優しい了。
だけど香奈は知っている。その優しさも本当は将が心の奥底に持つそれを引き継いだのだと――。
そう。将は優しい。夫としては申し分ない優しさだ。
だけどもしかして――将は自分を愛していないかもしれない。
愛しているのではなくて、優しいだけ――。
政治家として独身を通すわけにはいかないから……自分を選んだだけ。
……不安は、いつのまにか、ずっと見ないふりをしてきたそれにすりかわっている。
自分は、もしかすると、すべてを失う未来を引き寄せてしまったのか。
とてつもない不安――。
だけど。
それでもなお香奈は、将を聡に逢わせることを選んでしまった。
すべてを失うかもしれないけれど。
自分は夫を――将を愛している。その愛情は本物だと思いたい。
妻としての立場を守るためとか……独占欲のためとか、生活や名誉のためとか、そんな理由で将と一緒にいるのではない。
かつて。
教え子である将を愛してしまった女教師は、将のために身をひいたのだろう。
それは純代の態度からなんとなくわかっていた。
結ばれることより、将の幸せを願って、将の盤石な未来のために身をひいた。
いま、将を真に愛する自分も。
今、将が彼女に逢わなかったらきっと後悔するだろうから。
だから将のために。将が生き方に悔いを残さないように行動したい。
将の幸せに対して……将を愛する妻として、今は立場を考えずにまっすぐでありたい。
あのとき将を真に愛したであろう彼女に、行動で引けをとりたくない……。
香奈は不安に打ち勝とうと、心でもがいていた。
「三島くん。どういうことだ」
将は傍らにいる三島にそっと囁く。
三島は、恐縮したように目を伏せて
「奥さまからのたっての願いで、この席を設けました。すいません」
と小声ながら素早く回答した。
「香奈が」
つまり妻の香奈が、父である岸田教授の名前を使うよう三島に依頼したのだ――状況をすぐに理解しながらも、将にはわからなかった。
どうして妻の香奈が、こんなことを。
その疑問について頭は考えようとしながらも……将の視線は、聡のほうに向いてしまっていた。
将の瞳は、ひとたび聡の姿を見つけたが最後、吸いついて離れなかった。
忘れようとしても忘れられなかった懐かしいひとが、今、手の届くところにいる。
気がつけば将は脳裏で、記憶の中の聡と、いま目の前にいる和服姿の聡を知らず重ね合わせている。
聡は、やはり、痩せていた。
腫瘍ごと体のあちこちを切り取ったという陽の話を思い出す。
しかし、そんな痛ましい事実を映し出した姿にも関わらず、聡は依然美しかった。
陽に逢って以来、ひそかに将が想像した聡より……ずっと美しく年を重ねていた。
若い頃の、桃のようなみずみずしさのかわりに、真珠のようなしっとりとした落着きがそなわっていて……内側から照りがにじみ出ているような藤色の和服がよく似合う。
その色に将は見覚えがあった。
たしか卒業式――袴にあわせていた着物ではないだろうか。
萩にいる聡の母親がつくってくれたのだ、とはにかんだ若い日の聡と今の聡が……将の中で今重なる。
「総理……お忙しいところ、よくいらしてくださいました」
とまどう聡をよそに、陽が前に進み出た。
――ああ。
将の中に蘇る聡の懐かしい声が、今度は陽と重なる。
温かみのある低い声。
その声で呼ばれるだけで……こごえた体に血が通って温かくなるような、聡の声そのものだ。
眉と瞳の形、首のあたりに自分の面影を受け継ぎ。
そしてまた聡の優しい声音を受け継いで……立派に成長した娘。
26年前に二人が愛し合った結晶。
将は、総理としての言葉をすっかり忘れてしまった。
ただ懐かしくて。言葉にならない……。
「驚いたよ」
将は、一言そういうと陽をまっすぐに見つめた。
しかし、すぐあとに、ゆっくりと付け加える。
「だけど……ありがとう」