第34話 拉致(1)

 
あまりよく眠れずに、聡は金曜日の朝を迎えた。

目覚めた瞬間に内容は忘れたが、悪夢にうなされていた。いやな残滓だけがしつこく残っている。

青いカーテンの向こうはすでに明るいらしい。

聡はベッドから降りると立ち上がって窓を開けた。

予報は雨もしくは雪だが、空には明けたばかりの濃い青色が冷たく広がっていた。聡は今日、26歳になる。

まだ起きるべき時間より30分ほど早いが、聡はベッドを降りてパソコンを開く。

案の定、博史から聡の誕生日を祝うメールが来ていた。そういう記念ごとを、ぜったい外さない男だ。

ただ、指輪に同封されていたカードに書いてあった「重要なこと」については触れていない。

聡は返信を手早く打った。何事もなかったかのような、今までの二人にありふれた文面で。

将にはっきり伝えなくてはいけないだろうか。

やはり、自分たちはこれ以上先に進んではいけない、と。単なる教師と生徒に戻るべきだと。

いや、言ったところで納得するまい。

決意はしたものの、聡は将にどう説明すべきか、どうしたら諦めてくれるか、というよい考えが浮かばなかった。

>鷹枝くん、ごめんなさい。今日、やっぱり行けません。

携帯でメールを打ってみたが、やはり、送信する勇気がない。

うだうだ悩んでいるうちに出勤時間が迫っていることに気付いて、聡は携帯を閉じた。

ところが、鷹枝将は今日は欠席だった。

ぽっかりと空いた教卓のまん前を見て、再会して以来、将が欠席したのは初めてだということに聡は気がついた。

――風邪がとても悪化したのではないだろうか。

聡は心配で、気もそぞろに、今日の社会見学の確認事項を伝えるのみでHRを終わった。

職員室に戻ると携帯に着信があった。将だった。

>ちょっと準備があるから今日、学校休む。
>風邪はだいたい治ったから心配すんな。
>じゃあ18時30分に。△△で。

 
準備とは何か。いずれにせよ、聡は今日行けない。それを言わなくては。

ズル休みを諌める口実で自分の心に言い訳をしながら将へ電話をかけた。

何コールも待たされてやっと将が出た。

「……アキラ?」

将はどうやらメールを打ったあと二度寝していたらしい。声がひどくしゃがれている。声を聞く限り、風邪は昨日より悪化していそうだ。

――準備などではなく、本当に具合が悪いのだ。

聡は瞬時に悟った。

「鷹枝くん、風邪はひどいの?」
「心配いらねえよ」

という将の声の次に鼻をすする音がまざるが、ことさら元気そうに「夕方までには完全に治るよ」と付け加えた。

「……無理しないで」
「大丈夫だってば。じゃ、俺もう少し寝るから」

「ちょっと鷹枝くん」
「あ、誕生日おめでとう、アキラ。じゃあな」

電話は一方的に切られた。どうしても『今日行けない』の一言が聡には言えなくて、聡は携帯を握り締めてうなだれた。

 
晴れていたのは朝だけで、空は徐々に厚い雲に覆われてきた。

午後の早い時間から不透明で暗い雲が垂れこめ、その割れ目から射す太陽はオレンジがかってそれがいっそう寒そうに見えた。

将は約束の場所で待っていた。忠犬の銅像で有名な広場である。

日はとっぷり暮れてもうすっかり夜の風情である。空に厚い雲があるなら、冷え込まないはずなのに、しんしんと冷える。

皮のコートにマフラーと厚着をした将だが、15分も待っていると震えが歯に来た。

――待ち合わせ、店の中にすればよかったかな。

手の中には紙袋がある。中には沖縄行きのチケットと急遽買ったプレゼント。

今朝、将は昨日買ったばかりの新しい体温計の中に38度7分という数字を見た。

昨日はうがいできる場所が痛かった喉は、その痛い場所をより下に下げて、じんじんと痛んだ。体はあちこちが筋肉痛になっている。

薬を飲んで、昼の間寝れば治るだろうと、聡が昨日つくっといてくれた煮リンゴを食べる。

柔らかいはずなのに、喉を通るときに激痛がする。将はそれでも全部食べ、聡にメールをするともう一度寝た。そこへ、聡から電話があったわけだ。

しかし、喉の激しい痛みは将を少し弱気にした。

――もしかしたら、沖縄行き、拒否られるかもな。『病人でしょ、何いってんの』とか言って。いかにも聡が言いそうだ。

将は午後少し早めに起きた。風邪のほうは、そんなに短時間でよくなるはずはない。

薬のおかげで熱は37度8分に下がっていたが、喉の痛さはあいかわらず、というより、むせて咳が出る分ひどくなった、といえる。

しかし、将は着替えると街へ出た。

『いくらなんでも沖縄は』と拒否られたときのために、聡へプレゼントを買うことにしたのだ。

鼻水をすすりながら、最近出来たナントカヒルズあたりへ行ってみる。

熱があるせいかボーっとする。最初は聡に似合いそうな服関係を見ていたが、サイズがわからない。

何せ、いくら今まで女に不自由しなかった将だといっても、女、しかも大人の女性に服をプレゼントしたことなどはない。

熱も手伝って売り場にボーゼンと立ち尽くしてしまった。

アクセサリーは、あまり聡は付けないみたいだし、ジュエリー売り場は、店員の目が厳しくて、風邪をひいた今の将はしりごみした。

途方にくれて歩き回っていると、雑貨屋のガラスの棚に乗った可愛いペアのマグを見つけた。

将は、まだ暑かった頃訪ねた聡の家を思い出した。

あのとき、テストの成績次第でデートしてくれる、と約束して、将が勉強に集中しはじめて。

聡は眠気覚ましに、とコーヒーを淹れてくれたのだ。

でも、将にはソーサー付きのティーカップ、聡は自分専用らしいマグカップと、不揃いだった。おまけに聡のマグカップは少し縁が欠けていた。

『大学のとき、友達から誕生日のプレゼントでもらって、気に入ってるんだけど、うっかり落としちゃって』

と言っていた。

コーヒーを飲んだにしては、すぐに寝ちゃった聡。あのあと、将がキスしようとしたら、寝言で『博史』なんていいやがった。

――今なら?今でも『博史』と言うだろうか……。

言うはずがない。将はそれについては、今は自信がある。

聡は将に自ら深い口づけをしてきたのである。しかも、風邪をひいている自分に、だ。

博史には作っていない料理だって作ってくれた。

手をしっかりと握り合ったように、心はしっかりと結ばれているはずだ。

『これ以上はダメ』と制止したが、それは教師という立場上の話で、本当は心身結ばれたいはず……。

まあ、それは置いといて、将は聡へとそのマグカップを買った。

少し安易に決めちゃったかな、と思ったが、あくまでも沖縄チケット(将同伴)が本当のプレゼントで、これはサブという位置付けだから、まあいいか、と将は妥協した。

  
――おっそいなー。

待ち合わせ時間を15分過ぎている。

寒さが将を少しいらつかせた。携帯を鳴らしてみる。

『この電話はただいま電波の届かないところに……』

将は舌打ちすると、空を眺めた。

暗いが、雨か雪がふりそうな雲がたれこめているのがわかる。

将は耐えられずゆっくりと足ぶみを始めた。

沖縄行きの最終は20時30分だ。手続きを考えると19時すぎには空港に向かわなくてはならないだろう。

通常だったら聡の家に直接車で迎えにいったほうが確実だったが、社会見学で都心に出ている今日は交通機関を使ったほうがいいだろう、と判断したのだが……。

こんな寒い日だが、金曜ということも手伝ってか、ここで待ち合わせをするカップルも多い。

将の目の前を、相方を待っていた何組かが幸せそうに二人で腕を組んで夜の街へと消えていった。

あと少しで自分もその1組になれる……。

骨身にこたえる寒さは聡のぬくもりにかわる、と信じて将は待ち続けている。

が、時計はついに19時をまわった。

不安になった将に追い討ちをかけるように、雨が降り始めた。

晩秋の、みぞれ交じりの冷たい雨となって、いきなり強く激しく。待ち人を待つ人は皆、ちりぢりに屋根のあるところに避難を始めた。

将もあわてて避難して、聡に再度電話をする。が、電波が届かないメッセージだけが繰り返される。メールを送る。

>アキラ、何やってんだよ。
>俺、こごえそうだよ。
>社会見学が長引いてるなら連絡くれ。

 
しかし5分たっても10分たっても着信はない。

まさか、来ないつもりじゃ。という考えを将は無理やり打ち消す。

そんなはずはない。聡は絶対に来る。絶対に……。

将はポケットに手をつっこんで雨宿りをしながら、吐く白い息に聡を夢想した。

屋根がいっそううるさく鳴り、雨だれが白く濁って見えるのは、アラレを含むからだろうか。

一度浮かんだ不安は、将の胸の中で蟹が吐く泡のようにぶくぶくと不穏に膨らんだ。

――アキラ、何やってんだよ。早く来いよ。早く――

と、やっと。不安で張り裂けそうになった胸を抱えた将が右手に握り締めた携帯が鳴った。

『何やってんだよ』とセリフを準備しつつ、期待して開けた携帯に表示されていたのは聡ではなく、井口春樹だった。

「何?」

がっかりした将はあからさまに不機嫌な声で出た。声を出したはずみで痛い喉が咳を2,3回返してきた。

「将?センセーがなんかヤバイらしーぜ」井口の緊迫した早口が聞こえた。