着信音に、聡は思わず体を震わせた。
ベッドサイドのスタンドだけを付けて……聡は携帯の中の将を見入っていた。
高2の頃からの、将の笑顔。
その将の着信音だとわかっているのに、身体は震えるだけで……縛り付けられたように動かない。
出なくては……通話ボタンを押さなくては、と思うのに心が拒否している。
電波をつなげたら最後、言わなくてはならない。
……ちょうど、そのとき。
おなかの皮の内側でくるりと動く気配があった。
胎児が寝返りを打ったようだ。
いとしい、将の子供。
将のために、そして自分のために。覚悟を決めなくてはならない。
聡はごくり、と生唾と共に覚悟を飲みくだすと、人差し指で通話ボタンを押した。
「もしもし」
「アキラ!」
――だめだ。やっぱり言えない。
将の明るい声を聞いた聡は、大いにひるんだ。
やっと聡の声を聞けた嬉しさにはずむ将の声。
長いこと乾いた砂漠を歩いていた旅人が、水にありついたかのような、そんな声で聡は呼ばれたのだ。
「将」
応える自分だってそうだ。将の声を……もう1週間以上も聞いていない。
北海道ロケが終わって、東京に帰れるという知らせをもらって以来だ。
何も知らない将は、はずむ声で続ける。
「アキラ、俺、いちおうK大に受かったよ。関係ないけど、いちおう」
どうでもいい口調を装いながら、嬉しさがにじみ出ている将の声。
「うん。……知ってる。今日、お母様に聞いた」
夕方、純代に将の合格の一報を聞いた時、聡は『そのとき』が来たことを感じていた。
「なーんだ。知ってたのか」
「うん。よかったね……」
いや、でも本命は東大だし。どうせ行かないところだし。
そんな将の声の……言葉の意味はとうに脳に届かず……聡は将の声だけに耳を浸していた。
初めてあったときに比べるとずいぶん男っぽくなった声。
低いその声は……ぶっきらぼうな中にも、聡の名前を呼ぶときだけ、大事そうに、そして確かめるような声色が含まれている。
その声を聞くだけで、心をそっと撫でられたような快感が走る。
心の表面に生えた柔らかい産毛が、なびくようにそよいで……幸せに浸される。
将が好き。将を愛している。でも。
『そのとき』は今だ。
それは……決意を実行するとき。
将と、訣別するとき。
将が無事、一流大学に上がる目途がついて、次の撮影まで3週間以上ある今が、それを言い出すチャンスである。
聡はずっと前からそれをわかっていた。
聡と結婚しないなら、将は何も無理して東大を受験する必要はない。
K大だって……充分立派なのだから。
もし、仮に東大を受験して、万にひとつ、合格したとして。
18歳で担任教師を孕ませて結婚したという事実がどんなに将の未来に傷を付けるだろうか。
そして将の後ろにあるさまざまなものを壊すか。
聡にはそれがわかりすぎていた。
最初から……妊娠したときから、いや、将を愛し始めた時からわかっていたのに……将の情熱の前に、乗り越えられるような錯覚を起こしていた。
将が一般の若者だとしても世間は冷たい視線を突き刺すに違いないのに、まして将は俳優だ。
世間に隠れて、年上の教師を妊娠させた人気俳優に、マスコミがどんなふうに騒ぐか。
詩織の件だけであれだけ騒いだのだ。
いや、あれはドラマの宣伝をかねての『美談』だが、聡とのことが世間に明るみに出れば、俳優としてだけでなく、父の跡を継ぐ道もたぶん閉ざされるだろう。
それに総理を目指す将の父の康三にも悪影響を及ぼすに違いない。
それに……世間体もそうだが、聡自身が怖かったのだ。
まだ若い将の、固まりきらない愛に依存して生きる自分の未来が不透明すぎて。
一連の将のスキャンダルで聡が再確認したことがある。
それが、将の若さだった。
今回は、聡を裏切るところまで至らなかったけれど、いつかきっと。
詩織やみな子のように魅力的な子に心揺らぐときが来るかもしれない。
将より先に年老いていく聡。それだけは揺るぎない事実なのだ――。
その考えに至った聡は、苦しい胸から苦く湧いてくる唾液を飲み込む。
本当は……そんな先のことを想像する自分が何より嫌でたまらない。
将に愛されなくなる自分を悲観する……将の幸せより自分がいつまでも愛されることばかりを望む自分があさましくて、聡は吐き気がしそうになる。
じゃあ、自分は将をいつまでも愛し続けられるのか。
聡の前に、自身の過去が立ちふさがる。
あれほど好きだった、4年も付き合った博史を……聡は自ら捨てている。
自分自身をも信じることができなくて……聡は絶望していた。
だから、いっそ別れてしまったほうがいい。
将のために。そして自分がこれ以上醜くならないために。
まだ若い将だから。
心に傷を負ったとしても、3週間あれば、どうにか仕事ができる程度まで回復できるだろう……。
子供のことは、自分さえしっかりしていれば、きっとどうにかなる。
冷静に考えれば考えるほど、将と別れるのは今が最良のタイミングなのだった。
「アキラ、……アキラ?聞いてる?」
電話の向こうでおどけて聞いてくる将。
聡の心のうちなど、何も気付いていない将。
――子供なんだから。
聡は思わず微笑んで携帯電話を掌で包み込む……それが将自身の分身であるように。
他人にはひねくれて、大人びていたりするのに、聡の前では子供な将。
限りなく無防備に心を開く将。
そんな将に、自分は今、一番残酷なことを伝えるのかもしれない。
聡は胸が締め付けられるように苦しく、そして破裂せんばかりに痛んだ。
だけど、言わなくては。
ふいに聡は庭木の剪定を思い出した。
父が……若くみずみずしい芽が吹いている枝を容赦なく切り落としている。
それはひどくもったいなく、そして切られてしまう芽がかわいそうに見えた。
『可哀想じゃない?』
そう訊いた聡に、父は答えた。
『全部伸ばすと、木が弱ってしまうんだ。どの枝を伸ばすか、選ぶのが木のためなんだよ』
将の持っているさまざまな幸せの……可能性の芽。
聡との恋というひときわ瑞々しい芽は、将自身の先行きをきっと弱らせてしまう。
だから、今、剪定しなければ――。
「将」
聡は背筋を伸ばした。
「あたし」
スタンドの明かりだけの病室。
目の前の暗がりに、まるで将がいるかのようにまっすぐに視線を伸ばす。
そして、思い切る。
「将とは、結婚しない」