「え?」
聡の声は明瞭に聞こえていたが、意味が脳に届かなくて――脳は聞きたくない言葉に対してしばしバリアを張る場合がある――将は、反射的に訊きかえした。
「将とは、結婚、しない」
まるで外国人に話すように、ゆっくりと、かつはっきりと聡は繰り返した。
「何、冗談言ってんだよ」
将はハッと笑ってみる。態度からそれを冗談だと自分に言い聞かせるが如く。
聡の言葉を……あくまでもまっすぐに受け取らないのは、この場合本能なのだろうか。
「……冗談なんかじゃない。将、聞いて。あたし、将とは結婚しないことに決めたの」
低いくせに温かみのある声。それは決して将をいたずらに驚かせようとしているのではない。……そのくらい将にもわかる。
「もう、決めたの」
さらに聡は静かに繰り返した。
「何、言ってんだよ」
本気らしい聡に、将はそれでも、やりきれないため息を吐きながら『ばかな』という口調で応対せざるを得ない。
「結婚しない、って……子供はどうすんだよ」
心臓が、あまりの恐怖に波打ちはじめている。聡を失う恐怖は生命を脅かすそれのように、将を追い詰めていく。
核心を直視するのが怖い将は、とりあえず二人の前に横たわる現実を拾い上げるしかない。
「子供は……あたしが、ひとりでちゃんと育てる……」
「俺は、父親だろ!」
動揺した将は、聡の言葉に大声で割って入る。
『ひとりで』と聡はたしかに言った。
つまり聡は将と別れるつもりなのか。
聡自身から核心を伝えられるのを本能で恐れた将は、将は黙っていられない。
「将」
だが聡は、静かな調子で将を制すると、さらに奥へ……むきだしの本題へと進む。
「あたしたち……別れたほうがお互いのためだと、思う」
聡のほうも……酸素が薄くなったような苦しさの中から、言葉を絞りだしていた。
将は、バットで殴られて地面に投げ出されたように、ショックで言葉が出なかった。
飲み込んだ息がそのまま、体の中で凍り付いている。
『別れ』。聡はたしかにそう言った。
聡が自分の前からいなくなる。
将は、もはや聡のいない世界など想像もできない。いや想像もしたくない。……ありえない。
暫しの沈黙ののち、ようやく問い返す言葉が出る。
「何で……そんなこと、いうんだよ」
聡がなぜそんなことを言うのか、あまりにもショックを受けた将は、考えることすらできない。
「将に……、あたしに縛られないで、自由に生きて欲しいから」
聡は……さすがにもう一つの理由は言えなかった。醜い独占欲に由来するもう一つの理由は……言うつもりもない。
別れの間際に、醜い自己を晒したくない。
聡は今まで生きてきた中でもっとも重い空気に、胸が不自然に上下するのを耐えながら、将の言葉を待った。
しかし、意外なことに。電話は予告もなく、プツッと切れた。
思わず、聡は携帯を耳から離すと、ディスプレイを確認する。
……間違いなく将とつながる電波は切れてしまっていた。
聡は、肺にたまった重い空気を吐き出した。空気と共に体中を強ばらせていた力も抜けていった。
これで、終りなのだろうか。将は、納得したのだろうか。
信じられない。
聡は、将にこちらから電話をかけようか、何度となく迷った。
しかし、なんとか自分を抑える。こちらから掛けるわけにはいかないのだ。
掛けたとして、どうするのだ。
電話を掛けて、別れを納得してくれたのか確認するなど……できるはずもない。
聡は、気を取り直すと、ベッドの上で仰向けに上体を倒した。
白い天井は、スタンドの明かりを映して、くちなし色から灰色へのグラデーションになっている。
明日は退院だ。
まだ10時前だが、少し早めに眠るべく、聡はテレビも付けずに、ナイトキャップがわりの文庫本を開いた。
だが……案の定、眠りが訪れないどころか、文庫本のストーリーも一向に頭の中に入ってこない。
聡の頭の中では、何度となく……煩わしいほど、さっきの短いやりとりが、リピートしている。
将は納得したのだろうか。
いや、あれだけで納得するはずがない。……将はまた、きっと電話を掛けてくる。
聡はとうとう文庫本を閉じると、視線を天井に移した。
だけど。
さっき……電話を切ったのは将のほうからだ。
冷たい理性という思考が、聡の感情に確認したくない事実を突きつける。
もしかして……、まさか将は……別れを待っていた?
聡は目をカッと開いた。
もしかして、将の聡への気持ちは……とっくに褪めていたのだろうか。
自分とのつながりは、『子供に対する責任』のみになっていたのか。
だから、聡の別れの申し出は、むしろ歓迎すべきものだったのだろうか。
理性は残酷に……聡が望まない道筋を次々と組み立てていく。
――いや!
聡は思わず起き上がった。
自ら思いついた考えの恐ろしさに、震え始める。
それを抑えるように膨らんだお腹に手をあてる。胎児は沈黙したままだ。
そんなはずはない。
聡は、将が自分を愛している証拠を、記憶の中に探した。
愛の記憶は、溢れんばかりにあった。
だけど……今年になって。あの元旦のみな子とのキス以降、それは見つからなくて、聡は崖っぷちに立たされる。
違う。決して違う。
聡は必死で否定する。クリスマスには、大晦日の夜には。
だけど、恋は自分にもそうだったように、突然落っこちてくるものなのだ。
将の中で、みな子の存在がいきなり膨らむ、というのは充分にありえることなのだ……。
冷静な思考が、聡の感情をズタズタに切り裂いていく。
だけどボロボロになりながら、聡の感情はまだ叫んでいた。
これで終わるはずがない。こんなにあっけなく、終わるはずがない……。
突然、大きな音がした。
聡はハッとして、顔をあげた。
そこには……将がいた。病室のドアが開いて、将が立っていた。
伊達眼鏡も変装も何もしていない……聡が一番逢いたかった将の姿が、突然現れたのだ。
将は肩で息をしながら、病室のドアを後ろ手で閉める。
入ってきたそのときから、聡の顔から視線を少しもはずさない。
「アキラ……、何で泣いてんだよ」
将がいうとおり、聡の目はさっきから、涙をこぼしていたのだった。
それは……布団のカバーをしっとりと濡らすほどだった。
「……しょう」
目を紅く充血させた聡は、まだ信じられなくて、近づいてくる将を見上げた。
涙は止め処もなく溢れてくる。
「アキラ」
将は瞳を濡らしたままの聡に手を差し伸べる。
そのまま抱きしめようとする大きな手を……聡はかわした。
「どうやって、ここに来たの? ……面会時間は過ぎてるでしょう」
「そんなことどうでもいい」
将はそれだけ答えると、有無を言わさず、無理やり聡を抱きしめた。
「さっきの、電話……なんなんだ」
さっきの聡の言動に比べれば……どうやって家を抜け出したか、そしてどうやってナースを説き伏せてここへたどりついたかなど、些細なことだった。
聡のぬくもりに触れた将は、凍りついた息がようやく溶けたように、吐き出しながら背中を撫でた。
「……冗談にしてはひどすぎるだろ」
将は聡の髪に顔をうずめながら、その甘い香りを吸い込みながら、抗議した。