熱い将の腕に抱きしめられて、聡は体中でこわばっていたものが、しゅうっと溶けてそれが瞬時に甘い感覚に変化していくのを感じた。
疑いも、離れていた隙間も、一瞬にして埋めてしまう将の体温。そして干草のような香り。
すべてを忘れてしまう。
ひときわ強く抱きしめようとする将に、聡はかろうじて我を取り戻した。
「ダメ」
聡は将をふりほどいた。
今までくっついていた体のあちこちから、粘りついた未練が糸をひくようだ。
将も同じらしく、瞳に驚きを、半開きにした唇にせつなさを浮かべて聡を見下ろした。
「冗談なんかじゃないの」
聡の視線はそんな将の顔を正視できずに見る間に下に下がった。
将は、上下ともスウェットを着ていた……つまり、着替えもせずに飛び出てきたのだ。
下がっていく聡の視界から将の姿が完全に消えたとき、将が口を開いた。
「アキラ……」
「冗談じゃなくて……あたし、将と別れる」
将を遮るような聡の言葉。
「何言ってんだよ!」
将はかがんで聡の肩を取ると、俯いた聡の視界に無理やり自らの姿を割り込ませた。
聡はそれを避けるように横を向く。
「もう、決めたの」
「決めたって。……何ばかなこと言ってるんだよ!アキラ!」
将は掴んだ聡の肩をゆさぶった。顔がガクガクと揺さぶられる。
「おい、アキラ!」
聡はしばらく目を閉じて、将に揺さぶられるがままになっていた。
「やめて。お腹が……」
やっと口をきいた聡に、将は肩を揺さぶるのをピタリと止めた。
膨らんだお腹の中は、揺さぶられたのが刺激になったのか、ぐるり、と動いた。
それをも無視するように聡は、あいかわらず将の顔をみないように顔をそむけていたが、右頬に痛いほど、将の視線を感じていた。
どんな顔をしているかも……みなくてもわかる。
「なんで……そんなこと言うんだよ。……ねえ。アキラ」
聡の頬は、将の両の掌でそっと包まれた。大きくて温かい手。
この手に包まれて……何度口づけしただろう。
こんなときですら、将の掌を感じた聡の頬は……産毛からしみこむような甘い歓びに脳髄ごと震えている。
「こっち向けよ。俺の顔をみろよ」
将はその甘い感触の掌に力を込めて、むりやり聡の顔の向きを変えた。
……まるで、キスする前のように、将の顔が目の前にある。
きっと将は……そのまま口づけするつもりだったのかもしれない。
口づけはきっと抱擁以上に甘く、聡の全身を支配して……将から離れられなくするに違いない。
しかし、聡は辛くも将の顔を見据えた。
聡に見捨てられてしまう不安に、大きな眼は見開き、眉が不安そうな形に寄っている。
それはさっきの疑惑……将が聡からの別れを待っていたという疑惑を完全に吹き飛ばした。
安心した反面、いまからすることへの心の痛みを想像すると聡はひるみそうになる。
だけど、思い切る。
「あたしに……しばられないで生きてほしいの」
声がうわずる。だけど願いをなんとか音声に変えることができて……聡は将の次の動きを待つ。
「なんだよ、それ」
将の眉がゆるんだ。笑顔をつくる余裕ができたらしい。
思いの真意が伝わっていないと焦った聡はさらに言葉を重ねる。
「あたし、将に、好きなように生きてほしいの」
将は完全に優しい顔になると、聡の頬から手をはずした。
「俺は、もともと好きなように生きてるよ?」
将はベッドの……聡の隣に腰掛けると、聡の肩をぐいっと引き寄せた。
体の力が抜けてしまい……必然的に将の腕に体重を預ける形になった。
今度は肩の血流が甘い振動をたてるのを感じながら、聡は哀しくなる。
「何心配してるんだよ。俺は、アキラとこうして一緒にいたいの。アキラと一緒にいるのが俺の一番やりたいことなの」
優しい声。
聡は思わず目に熱いものが溜まるのを必死で堪える。
泣いたらいけない。泣いたら、感情にひきずられてちゃんと説明できなくなる。
「違う……」
聡は塩辛くなりつつある唾液を飲み込みながら、反論する。
「将、聞いて」
「聞くよ」
将は、肩から聡の髪に指をからませる。……そのまま、うなじから頭に掌を沿わせ……聡の頭を撫でた。
将の手が通ったあとは、まるで花が開くような歓びに彩られる。
聡は脳を占めていくそれに抗わなくてはならない。
快感にしびれたような部分の残りで将を説得する道筋を考えなくてはならないのだ。
「……将は、有名人でしょ」
「そうだね」
まるで聞いてるんだか聞いてないんだか……幼い子供のたわごとに相槌をうつかのような優しい声音。
「このまま子供が生まれたら……子供を将の子だって世間に公表したら……大騒ぎよ」
将は指の腹で聡の頭皮を軽く優しく叩く。
「そんなこと、最初っからわかってたし。……どうでもいいよ。騒ぎたいやつは騒げばいい」
「将」
聡は、寄り掛かるようにしていた体を起こすと、将を見据えた。
聡が真剣な顔で真正面から将を見据えたので、将の眉は再び……少し不安げな角度をとる。
「そんなところが、ダメなの」
ダメ、といわれて将の唇は半開きになった……意外な言葉に息が止まっているようだ。
「将。きいて。教え子が担任を妊娠させるなんて、普通の人だって大騒ぎになることよ」
いつのまにか、将の唇はぎゅっと結ばれている。
その瞳は憮然と聡に注がれている。
「まして、あなたは芸能人で顔が知られている。……きっともう、どの世界でも生きていけないほど叩かれるでしょうね」
「そんなこと……」
将は反論の糸口を口にしようとした。だが聡はその糸口を素早く拾ってしまった。
「そんなことって?」
吐き出すような反論の言葉が止まる。聡の目が真剣だったからだ。
「どの世界でも生きていけない状態で……、あたしと結婚して……あたしと子供と、どうやって暮らすの?」
「アキラ……」
どうにかなる、と言いかけて……さすがにそれは無責任すぎる言葉だと気付いて将は黙る。
「……あたしだって、教え子を誘惑した教師なわけだし……。就職できなくなるかもしれない」
聡が言っていることは正論だ。だけど、将はやりきれなくなる。
『どうやって暮らす』……つまり生きていく具体的な方策……突き詰めれば金。
聡と一緒にいることの前ではそんなことはちっぽけでくだらなくて、小汚いことだ。
そんなくだらないことで、聡と離れるなんて。
認められない将は、必死で方策を考える。
「金なんか!……デイトレーディングでいままでどおり稼ぐよ」
現に、芸能界に入るまで、そうやって大金を――愛車を手に入れるほどの金を――稼いできた将である。
「将……」
聡にも将の思いはわかっている。
生きていくための具体的方策なんて……そんな些細なことで将を説き伏せることができるはずがない。
聡自身、固い愛情さえあれば、そんなことは乗り越えられると信じたい。
だけど、むしろその固い愛情、というものに聡自身、自信が持てない、などと……そんなことは言えない。
だから、聡は生きる方策や世間体を並べ立てるしかない。
「将は、……それでいいの? お金の問題はいいとして……世間から隠れるようにしてコソコソ暮らすことに耐えられるの?」
「耐えられる。アキラがいれば」
将は即答すると、再び聡の肩をぐっと引き寄せた。自分の熱い心臓の音を聞かせるように、その頭を胸に押し付ける。
「アキラがいれば、世間から叩かれようと、なんだろうと耐えられる。耐えてみせるよ」
将は胸の中の聡の髪を撫でながら、噛み締めるように言い聞かせる。
「だめよ」
しかし、それは一瞬で、聡は将の胸を押すように離れた。
「そんなの、あたしが嫌」
「アキラ」
驚きのあまり哀しげな顔にさえなっている将を、聡は努力して睨みつける。
そうしないと、崩れてしまいそうで。
「将の才能を……、将の未来をあたしのせいで台無しにするなんて……。あたしが嫌なの」
「アキラ」
「コソコソ生きる将なんて、見たくない!」