第148話 山の休日(2)

沢村夫妻がお茶の支度をしている間、聡はとりあえず将を寮の中にある聡の部屋に案内した。

将は珍しそうに、簡素な木の壁などを見回していた。

「将、どうしたの、急に」

「会いたかったから……。なんだよ、喜んでくれないの?」

といいつつ、将は聡を素早く抱き寄せた。

柔らかな聡の感触をたしかめるように、抱きしめる腕に力を込める。

そんな将にすっぽり包まれた聡も自然に将の体に腕をまわす。

「土の匂いがする」

聡の髪に顔をうずめるようにして、将が囁いた。

「だって、畑づくり……」

顔を上げて説明しようとした聡は、その口を将の唇でふさがれた。

たった2日あけただけなのに、すでに懐かしい感触。

お互いの柔らかさを確かめるように、最初はそっと、だんだんと押し付ける力を強めていく……。

「お茶が入りましたよー」

食堂のほうから、聞こえた正枝の声に、二人は、名残惜しく唇を離すと顔を見合わせて微笑んだ。

 
 

お茶の湯気が窓から斜めに差し込む冬の陽射しを白く反射させる。

部屋や教室と同じようにウッディな食堂は、ガラス窓からふんだんに差し込む温かい陽射しのおかげで、いっそうのどかな雰囲気になっていた。

「鷹枝さんは……、学生さんですか?」

「ハイ。2年生です」

純一の問いに、躊躇もなくしゃーしゃーとウソをつく将を、聡は口をぽかんと開けて眺めた。

「どちらの大学で」

「東京大学です」

どうやら、将は、弁当屋についているウソと同じウソをつくことにしたらしい。

「そりゃ、たいしたもんだ」

と純一は目をみはったまま、聡のほうを見た。

ウソです。本当は高校生なんです、とも言えない聡はなんとなく笑うしかない。

背も高く、肩幅もがっしりとして、近頃さらに大人っぽくなってきた将である。

それに話し方だって、自然に敬語を使うことができるし、年配者に対する物腰も落ち着いている。

大学生といって誰も疑わないだろう。

このあとも、二人の馴れ初めなどについて、将は好きなように話していた。

「沢村さんは、ご結婚されてどれぐらいになるんですか?」

自然な流れで、訊いた将の問いに、夫妻は顔を見合わせた。

その見合わせる時間に、微妙な間合いがあった。

「籍を入れたのは、10年、いや11年かしらね……」

正枝が8年、9年、と数えるように確かめながら答えた。

11年?聡は意外に短いその数字を逆算してみる。50歳のときに結婚?

「わたしら、駆け落ちしたんです。いいトシして」

純一が、少し照れながら、その年齢にふさわしくない告白をした。しかしその顔は穏やかだった。

 
 

「すごいことを聞いちゃったね」

助手席で将が感に耐えずもらす。

ガタガタの未舗装道路を抜けて、舗装道路に出たときだった。

「うん……」

聡はフロントガラスの先に伸びる道路に視線を伸ばしながら、相槌を打った。

舗装道になったとはいえ、急なカーブが連続し、両側は暗い杉林に囲まれている。

二人が乗った軽乗用車は濃い紫の影をひたすら行く。

聡と将の二人は、昼食を兼ねて、夕食の買い物に出てきていた。

夕食は、すき焼きにすることになっていたのだが、若い将が加わったので、

肉や野菜を買い足さないととうてい足りない。

ちなみに将は夜10時の終電までここにいる、と宣言していた。

 
 

お互い、夫や妻、子供がいるのにも関わらず、恋に落ちて、それを全うした沢村夫妻。

特に勤めている会社の重役の娘を妻にしていた純一は、会社にいることもできなくなり、早期退職し、その退職一時金をすべて別れた妻に渡したという。

正枝も、経済的に何の苦労もなかった家を放り出して、純一に従いていった。

「でもね。私も純一さんも離婚が成立するのに3年もかかったんですよ」

以来、二人は住み込みのパチンコ屋や旅館などを転々とし、ここにたどりついたという。

「自分たちでも、何であんなふうになったのかわからないんですけどね。老いらくの恋、は失うものが多いってのは本当ですね」

と笑う正枝に、

「おいおい、47歳はまだ『老いらく』じゃないだろう」

と純一が訂正する。出会ったのが47歳なのだろう。そんなふうに顔を見合わせて笑った夫妻の顔には、経験した労苦にふさわしい皺が深く刻まれていた。だが、

「自分が選んだことですから」

とまっすぐに将と聡を見る二人の顔には、確かに幸せがあった。

 
 

運転しながら、聡は夫妻の話に自分を重ねていた。

博史を……思い出していた。

月曜日、火曜日と麓に降りてメールや留守電をチェックしていた聡だが、博史からの連絡があった気配はない。

危篤だといっていた薫は、どうなったんだろうか。

それを思うと聡は心臓がゆがむような、息苦しさを感じる。

夫妻は、お互いに、元の妻や夫、そして子供たちに申し訳ないことをしてしまった、と話していた。

特に、もう会えない子供のことを話すとき、正枝の目には光るものがあった。

すべてを失ったことも、妻や夫の苦しみを考えれば、当然のことだと言っていた……。

博史と結婚が決まって……指輪までもらっていたのに、将を好きになって別れを決めた自分は。

その報いに何を失うのだろうか。

そして何かの苦しみを与えられるのだろうか。

聡は不思議に怖さは感じなかった。

 
 

将は将で、夫妻の話を思い出して、純粋に感動していた。

17歳の自分には計り知れない、しがらみもあるであろう47歳の恋。

すべてを棄てて、全うすることができる。それほどの強い愛が本当にあるのだ。

そして、自分も、聡のためならすべてを棄ててもいい、と今一度、強く決心した将は運転席にいる聡を振り返る。

浮かない顔で運転に集中している聡。

おそらく、博史とその母のことを思い出して、罪の意識に悩んでいるのだろう。

穏やかなのにもかかわらず、沢村夫妻にあれほど強い結びつきを感じるのは、きっと二人がお互いの罪や苦しみをわかちあって来たからだろう。

幸福という人生の明るい部分だけでなく、暗い部分をもわかちあえる。

つらいことは二人で乗り越える。

聡の苦しみもわかちあって……二人で乗り越えたい。

そう思った将は、そんな決意表明のために、運転する聡の肩に手を置いた。

「運転、うまくなったじゃん」

とさりげなく、笑いかける。

聡は、将を振り返ると、つらそうな瞳のまま、口元で少し微笑んだ。

そして、視線を行き先に戻す。

そのとき、将が見つめていた、聡の瞳に明るい青が反射した。

車は暗い杉林を抜けて、明るい陽射しの当たる県道にようやく出たのだ。

澄んだ冬の青空が、希望のように二人の行く先に広がっている。