第362話 卒業(4)

雑踏とアナウンスが入り混じるホームの騒々しさに、携帯の呼び出し音を聞き逃すところだった。

電車を乗り換えるべくホームを歩いていたみな子はバッグから携帯を取り出すと、開いて表示を見る。

鷹枝将の表示に思わず立ち止まる。

すぐ後ろを歩いていた人が、急に立ち止まったみな子を睨みつけながら足早に追い越していく。

みな子はホームの階段の陰に無意識に近寄りながら通話ボタンを押した。

「……鷹枝くん?」

「今どこ」

名乗りもせずに、将は訊いてきた。

携帯から……自分のためだけに投げられる将の声。

ふいをつかれたように、それだけでみな子の心はわしづかみにされる。

「○○駅」

みな子はつい正直に、今いる駅を答えてしまった。

「今日、大阪に行くんだって?」

将はいきなり本題を切り出した。

みな子は将の声をより聞き取るべく携帯を耳に押し当てた。

「うん……」

みな子の急な出立を責める将の声は……耳から体中にじんわりと染みこみ……諦めたはずなのに、胸がきゅうっと苦しくなる。

「えらい急だな……一言くらい言ってくれても」

だって、よけいにつらいから。口にできない言葉は胸の中にちくちくと刺さりながらぐるぐると巡るだけだ。

あまりにつらいから……将と地理的に離れることで、決定打を与えて……早く忘れたかった。そんなことは言えるはずはない。

みな子はときめく心を引きちぎって捨てるように

「単なる友達だから。もう無関係じゃん?」

と無造作にいってのけた。

「友達、は無関係じゃないだろ」

怒ったような将の声。将はまだ……自分との『関係』を大事にしたいんだろうか。

それだけで……みな子の心は、忘れなくてはという理性とは裏腹に、温かいもので満たされていく。

しかしそれに浸っているわけにはいかない。

東京駅行きの列車が入ってくる轟音に、みな子は顔をあげる。

「電車が来たから……。じゃあ、元気でね。……先生と幸せにね」

なおもみな子を呼ぶ声を伝える携帯電話を、みな子は未練ごと切った。

そして前をむいて……快速列車に乗る、大阪へ向かう。その道筋だけを考える。

……それ以外の感情の回路のスイッチを切るがごとく。

 
 

――ここは。

ベンツを降りた聡は顔をあげた。

……将とはじめてのデートで来たレストラン。

塩でバリバリになった髪と服を気にしながらも楽しい時間を過ごした……大切な思い出が聡の脳裏に瞬時に蘇る。

「いらっしゃいませ。……お連れ様はもうお着きになられていますよ」

あのとき、ジーンズ姿の将に、気を利かせてジャケットを貸したメートル・ド・テルがにこやかに迎える。

その柔らかな笑顔からは、聡のことを覚えているのかどうかはわからない。

だけど聡は……毛利のあとについて踏む、体が沈むような絨毯の感触も……よく覚えている。

「古城先生をお連れいたしました」

メートルが扉を開け、毛利が中にいる男性に一礼をする。

そこは個室専用の待合室だった……豪華なしつらえのソファーに負けない品格を持つ男性が立ち上がる。

「おいでいただきありがとうございます。先生」

こうして向き合うと……本当によく似ている。聡は思わず息を飲み込んだ。

飲み込んだ息は、着物の襟元からお腹に落とされて、それで驚いたのか『ひなた』がびくんと動く。

将の父親、鷹枝康三・官房長官。

口元に笑みを浮かべた顔は……テレビ以外では初めて目にするものだ。

聡はこの将の父親に3度ほどじかに会っている――一度目は奇遇にもこのレストランだった。

将との初めてのデートの最中に偶然にやってきて……将などまるでそこにいないように無視した父親。

二度目は……将のマンション。

スキャンダルを起こした将をいきなり殴りつけた雷神のような怒りの表情。

巌の葬儀のときも同席はしていたが、あのときは席が遠くてさしたる印象はない。

促されて、午餐の席に着席する間も、聡の脳裏には、将を無視する冷たい表情と、雷神のような激しい怒りの表情の2つが繰り返し再現されていた。

「こうして見ると……やはり似ています」

毛利とメートルが立ち去るのを見計るように、康三はもらした。

目をあげた聡は、康三の瞳に懐かしい光が宿っているのをみた。

「私の前の妻……つまり将の母親に、先生はどこか似ていらっしゃる」

「私が……?」

「実は私の祖父が、先生は将の母親に似ていると申していると、運転手に聞いたことがあります。そのときは、まさかと思ったのですが……こうしてお顔を拝見すると、やはりどこか似ていらっしゃる」

康三の祖父とは、将には曽祖父にあたる巌のことだろう。

聡の心に大磯のあの邸宅が蘇る。夏の縁側に向けてしつらえられたベッド。

『あきらさん。あなたは将にとって、先生であり、恋人でもあり、……そしておそらく母でもあったのだろう』

しわがれた声は、たった今聞こえたようだ。

聡は……自分をこんな豪華なレストランに呼び出して、しかも『将の母親に似ている』と打ち明ける康三の、意図するところがわからなくて困惑した。

「私が……鷹枝くんの、お母様に……」

そのとき、一礼と共にソムリエが入ってきた。

「私はこのあとも執務がありますので。……先生はいかがですか?」

「私も……いいです」

もう、妊娠8ヶ月……そろそろ臨月に近い妊婦は、アルコールは控えたほうがよい。

瑠璃色の袴に覆われたお腹に目を落とした聡に、康三は一瞬、何かを話し掛けようとしたが……口をつぐんだ。

そしてあいかわらず落ち着いた調子で「すまないね」とソムリエを帰す。

「あの……。今日はどうして」

アミューズが置かれて、聡はずっと渦巻いていた疑問を、控えめに取り出してみる。

康三は光沢のあるナプキンを広げながらにこやかに微笑んだ。

「将が、無事高校を卒業出来たのは、先生のおかげです。そのお礼に、せめてごちそうをと思いまして」

「そんな……」

康三の笑顔は、テレビでの定例会見で見るのと同じだった……つまり本心ではないと直感した聡はうろたえる。

いや、直感しなくても……康三にとって聡は、未成年の息子をたぶらかしたあげく、勝手に妊娠し、あげく堕ろしもしなかった、常識のない教師である。

……そのことは、聡の心に大きく横たわり……いつ康三本人から、その事実を突きつけられるのかと聡は震える。

それはそのまま、今日、康三がこの場に聡を呼び出した答えとなりそうで……聡の血液は戦々恐々と全身をめぐり、ともすると毛穴を逆立てそうになる。

「それに、一度、先生にきちんとお会いしておきたかった」

康三は口元にはあいかわらず笑みを浮かべながら、言葉には隙のない敬語を施しながら……強い視線を聡に突き刺した。

――将。

人を突き刺すような将の視線は、この父親から受け継いだものなのだ……。

めまいを感じる聡に

「先生、まずは食事を楽しみましょう。……この店は本当に美味しいんですよ。私が保証します」

康三はさっきの視線が嘘だったかのように、目元を和らげた。

それでも聡は、なおも康三の視線から逃げるように、目の前に置かれた、フグの白子を使ったテリーヌに無理やり目を落とすしかない。