第370話 忘れ雪(4)

「さきほど古城先生から連絡入りました。……決心されたそうです」

毛利の報告に、康三は手元の法案関連資料を読む目を一瞬止めた。

国会も忙しいこの頃、康三は土曜日の朝から事務所に来ている。国会が開催される平日にはできない雑用が山のようにあった。

「そうか……。それで、いつ出発すると?」

すぐに資料の続きに戻りながら、肝心なことを訊き返すのは忘れない。

「来週の土曜日、13日に発つそうです。……将さまの後期試験が終わるまでは、すべてを伏せておきたいとのことです」

前期試験に不合格だった将は、13日に行われる後期試験に最後の望みをかける。

将がそれにチャレンジするのを見届けて聡はアメリカのボストンへ博史と共に旅立つというのだ。

東大に受かろうと落ちようと、もう二人の行く末は別々のものだと決まってしまっている。それを敢えて望みがあるようにふるまうのは。

「そうか……」

康三は理解した。

聡はせめて最後に、なんとか将を東大に合格させてやりたいのだろう。

それが……将を裏切る形になる聡の、教師としてのせめてもの、愛の証なのだろう。

康三は少し胸が痛むのを自覚した。

これほど、将の幸せをだけを考えることが出来る女。

そしてその女のために立ち直り人並ではない努力をなしとげた将。

そんな二人を引き裂くことへの罪悪感が康三の心にヒリヒリと沁みる。

――タイミングが悪かったのだ。

――人には立場というものがある。

教師という立場にありながら、教え子を愛するからいけないのだ。

よしんば、愛は許されたにしても。

せめて教え子が社会的に自立するまで、どうして待てなかったのか……。

康三は自分に言い訳する。

言い訳をしながらも、次々と不安材料は湧き上がってくる。

将は……聡を失ってどうなるのだろうか。

下手をすれば、また荒れてしまうのではないだろうか――。

歯止めとなる巌も……もはやこの世にはいない。

資料を読もうとする康三だったが、内容は脳に入らなくなってしまった。

――いや、大丈夫だ。

康三はついに資料をデスクの上に置いた。

聡が、将を捨てるのだ。

すべては聡を恨むようにしむければいい。

康三や純代ら家族は……将に同情的な立場をとりながら、心を癒すよう努力すれば、前のように荒れることはない。

それに、将はまだ若いのだ。

一人の女に裏切られたとしても、すぐまた別の女に心惹かれるに違いない。

康三は自分を無理やり納得させようとしたが、心の歯車がかみ合わず……ついに若い秘書官にコーヒーを頼むとため息をついた。

 
 

「お母さん、聡さんが博史と仲直りしたんだよ。……赤ちゃんもお腹の中にいるんだよ」

博史の父・慎一は墓に語りかけた。

そして、ぜひ見せてあげたかった……と、ハンカチで目頭を押さえた。

前に会った時よりいっそう白髪が増えているその姿を見て、聡は胸が痛んだ。

日曜日の今日。

聡と博史は、慎一に報告がてらレストランで昼食をとった。

その後、墓の中にいる博史の母・薫に報告するべく、彼岸には少し早い墓参りとなったのだ。

今日は卒業式の日と打って変わってぐっと冷え込んで、墓の前にいる博史も聡も慎一もコートを着込んでいる。

どうやら強い寒気が流れ込んでいるらしい。夜には雪になるのかもしれない。

「桜のつぼみもこごえちゃうねえ。……桜が咲くのを見てから出発すればいいのに」

慎一は二人に向かって微笑みかけた。

そんな風に……急に老け込んだ父を博史はかばうように促した。

急な聡の妊娠報告に、急な博史の留学――博史は会社を辞めて、ボストンにある工科大学の大学院にこの秋から社会人入学することになっていた……もちろん康三の力である。

『お盆に帰国したときにヨリを戻してそのときに子供も授かったのだが、薫の死もあり言いにくくて隠しているうちに、博史の留学が持ち上がり……それで間際まで言いそびれた』

そんな取り繕った言い訳を、一気に老け込んだ博史の父は、まるで疑おうとしないのだ。

ただただ、

「そうか。そうか。よかったな……」

と目に涙をためるのみだった。

「あきらさん」

別れ際に慎一は、深々と頭を下げた。

「博史を、よろしくお願いします」

この人のよさそうな紳士をも、騙しているのだ……。

息をするのですらためらうほどの罪悪感に押しつぶされそうな聡は、何と返事をしたか覚えていない。

今後……ひなたが生まれた後も、ずっと同じ罪悪感に責められるであろう……聡はそれが自分に与えられた罰の1つだと受け容れるしかない。

 
 

「聡……きいてる?」

気がつくと、博史と二人、タクシーの中にいた。

慎一と別れた後、寒いからとタクシーを拾ったことを思い出した。

低く雪雲が垂れ込めた空は少し暮れかかっているようだ。

「……ごめん、何?」

「夕食はどうする?」

「……昼ごちそうを食べたから、うちで簡単に済ますわ」

「あきら」

無理に笑顔をつくった聡に、博史は真剣な顔で向き直った。

「俺に……気をつかうなよ」

いつのまにか、『僕』という呼び方が、『俺』に戻っていることに聡は気付いた。

昔からそうだった。パブリックな場所では『僕』、二人きりのプライベートな場所では『俺』。

どうでもいいことが気になるのは、二人の関係が昔に戻っていくことを、心の奥深くでは、まだ恐れているのだろうか。

将を捨てて……昔の男に戻ることを。

せつなくなった聡は、小さく微笑み、小さく頷くしかない。

「俺は」

博史はさらに細い目を見開くようにして、続ける。

「俺は……負担でも、なんでもないんだからな。……夫婦になるんだから、何でも言えよ。つらかったら頼ってくれよ」

優しい。

そうだ。博史は昔から優しかった。

頼りになる年上の男――。

自分を包み込んでくれる……。

「ありがと」

だけど聡は涙を必死でこらえていた。

泣いてはいけない。涙を見せてしまったら……博史は自分を抱き寄せるだろう。

まだ。

将を裏切りたくない。

もう逢えないけれど。一生顔を見ることも許されないけれど。

13日、後期試験の最終日までは……将を励まし、力づけたい。

将がせめて……東大に現役で入れるよう。

最後のチャンスに最高のコンディションで向かわせるべく。

北海道にいる将からのメールや電話に……聡は何事もなかったかのようにふるまっていた。

将が東大に受かりさえすれば、二人の結婚が許可されるという、最初の約束が有効であるかのように……。