第371話 忘れ雪(5)

部屋の中に入るなり、聡は携帯電話にすがりつくようにしてメールをチェックした。

博史の前では開けることができない携帯には……やはり将からのメールが着いていた。

金曜日――卒業式以来、将は、ことさらまめにメールや電話を聡によこしている。

金曜日の夜も……北海道のロケ現場近くのホテルに到着するなり、電話をかけてきたのだ。

「この土日、アキラもこっちに来たらいいのに」

甘えた口調でそういった直後に

「……そのおなかじゃ難しいか」

と自分で納得している。その表情は聡には手に取るようにわかる。

……もう逢えない。

そのとき、聡は将のために最後の決意を固めていた。

いままで何度も同じ決意をしては、将への愛着故に崩れてきた……だけど、今回は覆すわけにはいかないのだ――。

顔を見ることは、もう一生ない……そう思うと電話から伝わる将の声は、聡をいっそう切なくさせて……聡は涙声になりそうになるのを一生懸命こらえた。

涙をこらえるべく、何気ない質問を探す。

「……撮影はいつまでなの?」

「9日か、天気が悪かったら10日までかかる」

「そう……」

9日。東大の前期の合格発表の日だ。そのことに聡の心は、再び痛む。

「合格発表は、ハハオヤに知らせてもらうことにしてるから」

まだ何も知らない将。あんなに頑張ったのに不合格だったのだ……どんなにがっかりするだろうか。

つくづく電話でよかった、と聡は思った。

もし目の前にいたら、将はすべてをわかってしまうだろう。

「もし合格してたらさ」

まだ、不合格を知らない将が明るく続けたので聡はハッとした。

「クランクアップしても、俺、東京には帰らない」

「え」

「こっそり、東京じゃないところで落ち合おうぜ。仙台とか名古屋とか」

たとえ合格しても、そう簡単に結婚させてもらえないのではないか。

それを心配したのだろう、将は二人で雲隠れすることを提案した。

「アキラももう学校休めるんでしょ。どこがいいかな」

――もうその必要はないのだ……。

楽しそうに計画を話す将に、聡は胸が苦しくなる。

「前期がもしダメでも後期があるし。後期は絶対大丈夫だよ」

沈黙する聡を、将は試験への杞憂と理解したらしい。

「……大丈夫。後期試験を受けることになっても、仕事に影響なんかさせないから。最後まできっちり『峻』になりきるし。そういえばさ、今日現場でさ……」

あまり心配させてもいけないと思ったのか、将は話題を変える。

いつものように、撮影現場での出来事を面白おかしく報告する。

そこには……ベテランのスタッフや芸達者な共演者から愛され、期待される将の姿が浮き彫りになっていた。

――大丈夫。将は……たくさんの人に囲まれている。支えられている。

だから、きっと大丈夫。

聡がいなくなっても……きっといつかはきれいに忘れられる。

 

>今日ホテルで、赤ちゃんを連れたファンの人にサインをした。

>ついでに赤ちゃんを抱かせてもらった。チョー可愛かった。俺らの赤ちゃんが待ち遠しい

 

今日の、将からの短いメールには、他人の赤ちゃんを抱いた将の画像が添付されていた。

日曜日の今日だから、ホテルの宿泊客の家族だろうか。

まだ生後半年くらいのぷくぷく太った赤ん坊を不器用そうに抱っこしながら将は歯をむき出しにして笑っていた。

『俺らの赤ちゃん』を将は、こんなふうに抱くことは、一生ない……。

だけど、それでいいのだ。

携帯を閉じた聡は、夕闇をカーテンで隠そうとして、窓の外に舞うものに気づいた。

ぼってりと暗い雪雲は、ついに3月の雪を落とし始めたのだ。

聡は思わず窓をあけて、手をかざしてみる。

雪は羽のようにひらりと舞って聡の手の上に落ちた……とたんに解けて、あとかたも残らなかった。

……はかない。

聡は手の上に、たしかにあった雪の姿を思い出そうとした。

だがそれは、もはや、おぼろげにしか浮かばなかった。

自分たちの恋も……こんなふうにはかないものなのかもしれない。

聡はわざとそう思ってみる。

しかし雪は、それに抗うべく、確かに経験した二人の思い出を連れてきた。

あの、雪に閉ざされたニセコの頂上を。

雪の中、腕をからませて歩いたクリスマスを。

あのとき、雪は二人を包んで……解けてしまうことなど未来永劫ないように思えた。

二人には甘く懐かしい思い出が、今の聡には、せつなすぎて息もできないほど苦しい。

だけど。

そんな雪の思い出も……いつか解けてしまうのだろうか。

将への……断ち難いこの思いも……解けて消えてしまうのだろうか。

この痛いほどのせつなさも……感触すら思い出せないほど淡い記憶になってしまうのだろうか。

そんな日など、果たして来るのだろうか。

暮れゆく空から無数に舞い降りてくる雪。

そのひとひらひとひらに将との思い出を散華させるべく……でもできなくて。

聡はただ雪を見つめて窓辺に立ち尽くしていた。

 
 

夜。

聡との電話を切った将は、なんだか胸騒ぎがするのを感じた。

ちなみに金、土、日と、このところ毎晩寝る前に必ず聡に電話を入れている。

聡の様子がおかしい。

どこか寂しげというか……変だ。

金曜日の……卒業式のあとのパーティからずっと感じていることだ。

そんな聡が、将を心配させないようにと、なんでもないようにふるまっているのも、わかっている。

だけど……聡が取り繕えば取り繕うほど……はかなげなほどの寂しさが却って浮き彫りになるようだった。

卒業したことで、学校ではもう逢えないからだろうか。

……将がもし不合格になれば、このまま二人は引き裂かれてしまう。

そんな心配が身近になっているのだろうか。

合格が盤石というわけではないゆえに……心配をさせてしまう自分が、将は歯がゆかった。

将はベッドを下りると窓辺へ近寄った。

あけたカーテンの形に、降りしきる雪が切り取られて浮かんだ。

『東京も、今日は雪が降ってるよ』

さっき、聡は言っていた。

『これが止んだら、きっと暖かくなるね』とも。

大丈夫。今を乗り越えれば、二人にも春がやってくる……。

そう伝えられれば。

できることなら、今すぐ飛んで行って抱きしめたい。

「大丈夫だよ」と耳元で囁けたら。

東京に降りしきる雪の下で眠る聡とそのおなかの子供のことを、将は3月の雪の中に思い浮かべる。