第374話 最後の望み(2)

「お兄ちゃん、コーヒー持ってきたよー!入っていい?」

ノックではなくドアの向こうで孝太が叫んだ。

「どうぞ」

机に向かっていた将は、返事をしながらそれを区切りに携帯の画面で夜9時を確認すると振り返った。

部屋に入ってきた孝太は大振りのマグカップを両手を添えるようにして持ちながらそろそろと将の机に進んできた。思わずその様子に将はなごむ。

将が鷹枝家に戻ってきてからというものの、息抜きのコーヒーを持ってきたり、食事の支度が出来たと声をかけたりする、いわゆる連絡係で孝太は大活躍している。

短期間で受験勉強に集中せざるをえない将に、自分が感情的な邪魔をしないように、との純代の配慮であることを将もわかっている。

「ブラックでよかったんだよね」

孝太はカップを慎重に将が勉強する机の端に置くと、嬉しそうに振り返った。

「うん。ありがとう」

将のことが大好きな孝太だが、純代に邪魔をしないように言い含められているのか、いつもはあまり長居はしない。

だが、今日は勉強机の横の棚の上にある大きなカトレアの花束が気になったらしい。

「あれ、北海道でもらったの?」

孝太は指差した。

「うん。今日で撮影が終わったからね。みんながくれたんだ……」

 
 

今日の昼過ぎ、将は無事にラストシーンを撮り終えた。

「OK!」

と監督が大きな声で叫ぶなり、スタッフの皆から拍手が起こった。

丘の上に一人で佇んで演技を続けていた将には、それがさざなみのようにすそ野から響いて青空へ抜けていくような不思議な感覚に包まれた。

拍手に迎えられながら、雪に自らが足跡をつけた道をたどって、慎重に降りる――そこでクリスマスのときの教会の裏でのことを思い出して将はふと空を見上げる。

あの絶え間なく雪が降り積んだ夜と違って、真っ青な空は白銀の上にありながらすでに春の予兆を見せていた。

――アキラ。終わったよ。やり遂げたよ。

将は青い空に聡の顔を一瞬確認すると、ギュッギュッと雪を踏みしめながら丘を降りた。

ようやくふもとに降りた将に渡されたのが、この一抱えもあるようなカトレアの花束だった。

「お疲れ様でした」

と贈呈役を引き受けた詩織がいたずらっぽく微笑むと、周りに集まったスタッフが一斉に拍手を強めた。

「どうもありがとうございます」

もらった花束は背の高い将ですら鼻先に強い香りを感じるような大きなものだった。

「このまま受験も頑張ってね」

現役大学生である詩織がお姉さんぽく将にエールを送る。その横から

「このまますぐ帰って勉強だろう」

脚本家の元倉亮が笑いかける。

将登場最後のシーンの今日は、元倉も現場に顔を出していた。

元倉や監督の表情から見るに満足な出来だったのだろう……頭を下げながら将は心からほっとした。

考えてみればこの男の手前、やり遂げなくてはならない仕事でもあったから……。

「頑張れよ」

機嫌がよさそうな元倉は、将の肩にポンと手を置いた。

「ハイ」

そのまま、すれ違って行ってしまうと思ったが、元倉は将を呼び寄せた。

「……もっとも、もしダメでも。こっちの世界もお前を待っているぞ」

将は思わず元倉の目を見た。元倉はニヤリと笑うとそのままいってしまった。

 
 

将は孝太と一緒に花束を見ながら、終わったドラマに思いを馳せていた。

仕事が面白くなかったといったらウソになる。

何より活気があったし、すでにプロとして活躍している大人と同じ土俵にあがるのは、良い意味で将のプライドを刺激した。

彼らから学ぶことも多かった。

芸能界という一見派手な世界ではあるが、演技力という実力や人とうまく協調しながら1つの作品をつくりあげていく――。

それは聡が教室で言っていた社会と大差はない気がした。

『こっちの世界もお前を待っているぞ』

ふいに元倉の最後の言葉がリフレインする。

それは将の中に手ごたえとして残っていた。

評判も悪くないし、自分でも向いていると思う。

ときどき武藤が遠慮がちに見せてくれるドラマ評には、面映ゆくなるような褒め言葉が連ねてあった。

将自身他人を演じるのは面白かった。

今までは自分に近い役が多かったが、もし出来るのならまったくかけ離れた役にチャレンジしてみたい。

だが……もう、おそらく、この世界には戻らないだろう。

聡のために。聡と生きるために捨てるべき道。

将は時計を確認するふりをして、待ち受けの聡を表示させる。

聡のために、あさっての後期試験は全力で臨んで……かつ、絶対に合格しなくてはならない。

そして父が……巌が望んだ道――鷹枝家の跡取りとして、国のために働く――その道へ進まなくてはならない。

「あきらさん、元気?」

携帯をのぞきこんでいた孝太がいたずらっぽく将を振り返る。

「うん。元気……て、おまえ、アキラに会ったことあったっけ」

「あるよー!去年一緒に遊園地いったじゃん!」

ああ、と将は思い出す。去年のバレンタイン前日に家出した孝太を連れて、遊園地でデートしたんだった。

あのころから比べると、この4月で小3になる孝太はずいぶん少年ぽくなった。

「はやく受験終わらせて、あきらさんに会いたいよね」

あまつさえこんな軽口さえ叩く。

「こいつ」

将は孝太のほっぺたに人差し指を食いこませた。孝太は体をよじらせて笑った。

 
 

孝太が行ってしまって、部屋は再び静寂に包まれた。

将は再び、携帯の中で微笑む聡を取り出す。聡の髪の上にある時計は21時30分を表示している。

もう最後の試験まで36時間……つまり2日もない。

……あさってから始まる試験こそ、聡との運命が決まる正念場である。

聡のために、後期試験は絶対に、失敗することはできない。

いわば最後の望みである。

チャンスはあと1回しかないのだ。

もしも。前期試験のときのように手ごたえを感じていながら、ダメだったら……。

将はふいに浮かんだその考えを振り払って、目の前の英語に集中しようとした。

しかし、目に入る一切の単語は脳に届かず、英語のまま跳ね返ってくるようだった。

かわりに、暗い想像がじわじわと将を侵食してくる。

将はその想像に飲み込まれるまいと、声に出して英文を読んでみた。

だが……一切は無駄だった。

必死で抵抗したのに、将の脳は真黒な絶望の予感にとらわれてしまった。。

心と脳がそれに占拠されたとたん……不安が血流を伝ったかのように、いままで平穏だった将の心臓は、唐突にばくんばくんと収縮を始めた。

――もし、失敗したら。

――聡とは、たぶん、永遠に引き裂かれてしまう。

将は、痛いほどの拍動と最悪の想像を止めることができない。

暗闇に飲み込まれていく聡の姿が、脳裏に映し出されるのを振り払えない。

考えてみれば……ドラマの撮影が延びていた間は、かえってその限られた合間だけしかなかったから、勉強に集中できていた。

だが今は。

真っ暗な絶望の谷間は将のすぐ背後にある……将はそこから吹き付けてくる不安に対して何も目隠しできないのだ。

将はいてもたってもいられなくなって思わず立ち上がった。

我慢していたけどやっぱり聡に会いたい。

聡に会って……一言「大丈夫」と言ってほしい。

……否、何も言わないで抱きしめて……いや、優しくみつめてくれるだけでいい。

しかし。それは無理難題であることを将は知っている。

北海道から自宅へ帰ってくるあいだ、ずっと記者やカメラマンがついてきていた。

目立たないようにはしていたけど、陰から狙っているのは、将でもわかった。

皮肉なことに、将の人気はまだ依然上がり続けていた。

そんな将がなぜ芸能界を蹴ってまで東大進学にこだわっているのか、そして受験後の復帰はないのか。

そのあたりの正確な情報を……できればスキャンダル込みで狙っているのかもしれなかった。

将はため息をつくともう一度、聡の待ち受けを見た。

金沢に行った時に撮った聡は、まだ今の運命を知らずに、明るく笑っている。

聡のためにも軽率な行動は憚られる。

だけど……なんとか、会いにいくことができないだろうか。

それともカフェかどこかに聡を呼び出して……勉強を教えてもらうふりだけでも難しいだろうか。

そうだ。

聡は教師なんだから、卒業したとはいえ教え子に、受験直前の個人授業をするのはまったく世間的に変ではないはず。

最悪それだけでもいい。

そう思って聡に連絡をとろうとした矢先。

唐突に携帯が鳴りだした。

手に持っていた携帯が鳴り響いたので、将は腰を抜かしそうになった。

井口、と表示されている。

……その名前を見た瞬間、将は目を輝かせた。