将が聡から受け取ったメールはあきらかに変だった。
その前の電話の最後に『また掛けるから』と言っていたのと、あまりにも矛盾している。
だからその言葉どおりを信じるわけにはいかなかった。
そうかといって、ウソだという確証は持てない。
大悟と二人、遅い昼食のカップ麺を食べていた将はいてもたってもいられなくなった。
とうとう立ち上がると
「ちょっと、俺、出かけてくるから」
と家を飛び出した。
博史がいたおかげで、聡の部屋の掃除ははかどった。午後3時には例年以上に隅々までキレイになった部屋で、博史と二人コーヒーを飲んでいた。
すっかり博史のもののようになってしまったマグカップを見ながら、聡は携帯を気にしていた。
将の連絡があれば、と思ったのだが、携帯はうんともすんとも言わない。
さっきちょっと出かけたときに持っていって……将に連絡すればよかった。
博史はコーヒーを飲みながら、昨日の忘年会のこと、また聡の学校のことを聞いてくる。
聡も辞めたくない、と言った以上、学校や教育に対して熱心なところを話さなくてはならない。
無難に自分がやっているオリジナルの授業のことを話した。
博史はそれを興味深げに聞くそぶりを見せながら、実はそんなことが聞きたいのではない。
あの鷹枝将と聡の関係を、聡の話から窺いたかった。
しかし聡の唇から一度も将の名前は出なかった……そのことは、聡が将のことを意識していることをかえって博史に連想させた。
将が運転するミニのフロントガラスに聡のコーポが見えてきた、ちょうどそのとき。
階段の一番下に博史の姿が見えた。あとに続いて聡。
二人ともクリスマスのときよりカジュアルな格好で、それは仲良さそうに見えた。
博史は笑顔で聡を促して……背中に手を置いて……将とは反対の方向へと歩いていった。
二人の姿が角を曲がって見えなくなったとき、将は自分が息をとめていたことに気付いた。
一度つかんだ命綱が、再びちぎれて、将は谷底へ突き落とされるような錯覚に陥った。
気乗りがしなかったが、『親が楽しみにしているんだ』という博史のたっての願いで聡は再び博史のマンションへやってきた。
聡は極上のしゃぶしゃぶで再び歓待を受けることになった。それだけでなく、食後には美味しいケーキも用意されていた。
先日聡が『美味しい』といったのをちゃんと覚えていてくれたのだ。
博史の両親に優しくされればされるほど、聡は申し訳なくて、言葉が少なくなった。
いっそ博史を好きなままだったら、どれほど幸せだったろう。
聡は、博史の両親から『これ、ご両親に差し上げて。つまらないものだけど』と帰省用のお土産までもらってマンションをあとにした。
もちろん博史が送って、である。
「アキは、いつまで萩にいるんだっけ」
運転しながら博史は聡に訊いた。
「4日まで。冬休みは7日までだけど職員は5日が仕事始めなの。博史さんはいつまで日本に?」
「5日の朝早くには、いったんカタールへ発つよ」
「あ、そう」
聡は淡々と返事をしつつ、それだったらもう博史と寝なくてもいいと計算し、ホッとしていた。
去年といえば、聡は31日まで弁当屋の手伝いを口実に東京に残り、3日の夜には戻ってきていた。
……博史と少しでも長く一緒にいたかったからである。
もちろん逢えなかった分を取り返すように、毎晩抱き合った。
去年と今年の自分の気持ちのあまりの変わりように聡は少し怖くなった。
「そういえば11日から修学旅行って言ってたね。どこ?スキー?」
「うん。北海道でスキーなの」
「ふうん。教師も滑れるんだ?」
聡は小学生のときに親が日本人学校の先生をしていた都合で、カナダにいたこともあり、ウィンタースポーツ全般が得意である。
アメリカ留学時代、二人でではないが、博史とスキーにいったこともある。
「さあ。自由時間は滑っていいとは言われたけど。ところでカタールからはいつ帰るの?」
聡は別れを切り出すならいつがいいのか、考えている。
「2月までには帰りたいね。遅くとも4月に式を挙げたいことを考えると」
『式』と聞いて聡は一瞬だまりこんだ。
「……次の赴任先へはいつからの予定なの?」
「辞令が出るのは3月で、4月から書面上は赴任になるんだけど、たぶん最初は出張対応かな。赴任するのはGWあけじゃない?だから新婚旅行はGWに行けばいいよ」
「博史さん。あたし……」
「わかってる。学校は辞められないんだろ。それについてはもう少し二人で考えようよ。俺は、聡が仕事を続けたいってのは尊重したいんだ」
博史は自分がそらぞらしいことを言っていると自覚している。
博史の母親は専業主婦である。そして博史自身、妻子を養えるだけの収入がある代わりに、とても忙しい。
聡には博史の『妻』業に専念してほしいと、漠然と望むというかそれが当然だと思っていた。
そのとき聡の携帯が鳴った。ハンドルを握る博史の目が鋭くなる。
遠慮しながら表示を見ると『弁当屋』とあった。
安心して博史に「元バイト先から」と博史に告げて、出る。博史の目が和らいて再び前を向いた。
「ああ、アキラちゃん。元気だった?」
懐かしいおかみさんの声がした。
「おかみさん」
「アンタ、いつ萩に帰るの? いやね、いつもうちの黒豆を持って帰ってたでしょ。今年も持っていくのかなと思って用意してるのよ」
――そうだった。
一度持ち帰った弁当屋の黒豆は実家で大好評を博し、以来、毎年持って帰っているのである。
「明日、帰るんですけど……。もしよかったら、今から取りにいってもいいですか?……ハイ、いつもすいません」
聡は電話を切ると、事情を博史に話し、弁当屋に寄ってもらうことにした。
「おかみさん、よかったぁ、連絡してくれて」
「アキラちゃん、よかったよ、間に合って。ほらコレ」
おかみさんは白いビニール袋に入ったタッパーを聡に渡しながら、聡の後ろに立つ男に気付いて
「そちらは……?」と聡に訊いた。
「あ……」
言いよどむ聡に代わって博史自ら
「原田博史と申します。聡さんとずっとお付き合いしてまして、このたび結婚することになりました」
と名乗った。
「……へえ」
おかみさんは、驚いて目を丸くした。奥で、ご主人もこちらを振り返った。この二人は、聡は山田、つまり将とうまくいってると思い込んでいるのである。
聡は困惑して、でも否定するわけにもいかず、あいまいに笑うしかなかった。
「そう、それはおめでたいねえ」
聡の困惑した顔と博史の顔を見比べていたおかみさんは、とりあえず無難な祝い言葉と笑い声を口にした。
「お代は?」
博史は財布を出した。
「ああ、いいんだよ。これはアキラちゃんちへのお歳暮がわりで」
おかみさんは両手を胸のところで振った。
「ですけど」
博史は万札を出した。
「いいんだって」
「博史さん、いいんだってば。いつも頂いてるんだから」
「聡がお世話になったお礼です」
押し問答の上、博史は強引に万札をおかみさんに受け取らせた。
聡はおかみさんに申し訳なかった。
「大悟じゃーん!」
その夜。将の部屋を訪れた井口は、玄関に出てきた大悟を見て嬉しそうな声をあげた。
「井口クン!ひさしぶり!すっげーピアスだな」
大悟は井口の顔中のピアスを指差すと笑顔を浮かべた。
「いつこっち来たの? ん?将」
将はリビングでぐったりと潰れて寝ている。
「なんか、今日昼出てって、帰ってくるなり、大酒のんじゃってー。こんなんなった」
「おい、将ってば」
井口は将の体を揺さぶった。
「う~……揺さぶるな。気持ち悪」
将は赤い顔に眉根を寄せてつぶやく。
「将のやつ、こないだから変なんだ」
そういう井口は25日に酒を飲んでヤンキー相手に大暴れしたときから一緒で、失踪から戻って以来の将の荒れ方を心配していた。
「ずっと、居んの?」
井口は大悟に訊いた。
「うん。正月中はいるつもり」
「いいなぁ。俺もここに居ようかなあ」
そう言いながら井口はタバコに火を付けた。
「ところで、井口さあ、将の女って知ってる?」
大悟が唐突に質問したので、井口はタバコを取り落としそうになった。
「え?アキラセンセのこと?……てか、なんで?」
「いや、今日の昼な……」
将の留守中。
いきなり玄関チャイムが鳴った。大悟は、出ていいものか迷ったが宅急便だったりするといけない、と思いつき
『ハイ』
と玄関ドアを開けた。
そこには髪の長い少女が立っていた。
制服姿だったが、青ざめて見えるほどの顔色の悪さが大悟の印象に残った。
少女は出てきた大悟を見て、ただでさえ大きな目を真ん丸くしていた。
『……将は?』
『いま留守、ですけど』
大悟はいちおう丁寧語を使った。
『そう』
少女は失望したようにいっとき目を中空に遊ばせると、大悟に挨拶もせずにそのままエレベーターに向かった……。
井口はその話を聞いただけで、その少女が瑞樹だとわかったが、何で今ごろ彼女がここに現れたのかよくわからなかった。