窓から薄日が差した。
しかし、雪雲の間から射すそれは冷たく尖ってさえいるようだった。
食事はあらかた終わり、たった今二人の前に置かれたのは、香り高いダージリンティだった。
柔らかな紅茶の湯気を鋭い縞に変えてふいと消える。やはり予報どおり雪は断続的に降り続くのだろう。
そのティーカップから香り高い湯気が立ち上るのを見届けたあと将は続けた。
「……一度は、ボストンにも行ったんです」
聡がゆっくりと顔をあげたのとは対照的に、将はカップに向かって小さく微笑むとそれを口に運んだ。
聡に置いて行かれた将は、一切の気力を失ってしまった。
リハビリにも力が入らない。
理学療法士が来る時間だけは、言われるがままにリハビリメニューをこなしはしたが、それ以外の時間はぼんやりしていた。
病室のベッドに寝そべったまま、うとうと眠っているか、ゲームばかりしている。
体を元に戻すモチベーションを完全に失ってしまっていた。
純代は抜け殻のようになってしまった将をなんとか励まさなくてはと焦った。
しかしその年の総裁選で康三が立候補することも決まっており、そちらでのフォローもあり将ばかりについているというわけにもいかなかった。
それに純代が何を言っても、死んだような将の瞳に光が戻ることはなかった。
以前のように表立って反抗したり、無視したりということはなくなっていたが、生気というものがなくなっていた。
そこで純代は、自身は将の身の回りの世話に専念して、できるだけ将の病室に人を呼ぶことにした。
まずは弟の孝太を毎週病室に通わせることにして、勉強を見てやるように命じた。
さらに、大磯の春さん、元クラスメートの井口や兵藤たちにも、見舞いに来てもらえるよう頼みこんだ。
親しい人間が来ている間は、将の顔に少しではあるけれど笑顔が戻ったから。
それでも、ときどきぼんやりしているのは――顔に生気がないのは変わらなかった。
そんな将を、一喝したのは香奈だった。
「お兄ちゃん! ……いったいどうしちゃったの!」
小学六年生の香奈は、中学受験を控えていた。
受験時に岸田助教授に小論文を見てもらったお返しに、今度は香奈の家庭教師を。
かつて交わしたそんな口約束の代わりに、香奈は孝太同様、将の病室に勉強を教えてもらう名目で通っていたのだった。
夏休みだったこともあり、塾の帰りに香奈はよく将の病室を訪れた。
そのときは……香奈が問題集を解いている間、将は病室のガラス窓ごしにぼんやりと入道雲に目をやっていた。
あの入道雲が浮かぶ太平洋の向こうに、聡がいる。今頃聡は……。
いまだに将の頭には聡のことばかり浮かんできてしまう。
忘れられるのはゲームに熱中しているときくらい。いやゲームをしていても、誰かと話していても、将の頭にはいまだ聡がいたのだった。
無理だとわかっているのに……。
「お兄ちゃん! ……いったいどうしちゃったの!」
問題を解いているはずなのに、いきなり大きな声を出した香奈に、ぼんやりしていた将は目の前で風船を割られたように面食らった。
香奈は、生きる屍のような将に、とうとう業を煮やしたのだ。
「お兄ちゃんらしくないよ。……彼女に捨てられたの?」
香奈は大人びた口を利くと、シャーペンをくるりとまわしながら肘をついた。
はっ、と乾いた笑いが将の口をついて思わず出る。
「そうなんだー」
笑いがあまりにも乾ききっていたせいか、相槌を打つ香奈の瞳も、いかにも気の毒といった風情になっている。
12やそこらの少女にさえ、同情されるほどのみじめさ。
そうだ、自分は捨てられたのだ。
将には聡がすべてだった。
なのに……その聡に捨てられて。
ここにいるのは、現実を受け入れられずにいるみじめな自分だった。
「あのさ」
香奈は頬杖をついて将を斜めに見つめた。
そんな風なしぐさをすると、小学生なのにまるで同年代の女性のようだ。
「そんなにボロボロになっちゃうなら、直接会って、捨てないで……って、もう一度頼んでみればいいじゃない」
それは思いもかけない選択肢だった。
あの手紙以来、聡からの便りなどあるはずもなく。
自分と聡との間の子供が、無事に生まれた連絡もなく。
……そんな聡にもう一度会う。ボストンまで聡に会いに行く。
そんなことは思いもよらなかった。
「そうだよ、会いに行けばいいじゃない。そんなに好きならわかってくれるかもしれないよ。彼女だってお兄ちゃんのこと好きだったんでしょ」
そうだ。
聡は自分を確かに愛していた。深く愛されていたと思うのは間違いではないはず。
思えばあの最後の夜だって、泣いてばかりいたのは本心では別れがつらかったからだろう。
聡は、自分を忘れられるのか。
もう一度、確かめたい、聡の本心を。
……逢えば、聡は自分へと戻ってくるかもしれない。
聡に会いにボストンへ行く。
将はその選択肢を選ばないわけにはいかなかった。
その目的のために、再びリハビリに励むこととなった。