「……その後、パリの学校での教師の口が見つかって、私たち親子は新しい暮らしを始めることができました。……それもお父様のご尽力の賜物だったんですけれど」
窓からときおり射す陽が、だんだん色づいてきた。
淡く温かい色に照らしだされた聡の頬は、少しだけ血色がいいように見える。
だけど、それは同時にその懐かしいおもざしに深い陰影をもつけるようだった。
聡の歩いてきた今までを象徴するように。
聡はおそらく苦労してきたのだろう。
それを思うと将は、苦しい。
なぜ、諦めてしまったのか。
ずっと探し続けなかったのか。
思いを手放してしまったことがいまさらながら悔やまれる。
「……フランスにいても、鷹枝くんの活躍はずっと見てたんですよ」
聡は柔らかく微笑んだ。
だけど、聡が見ているのは今の将ではない。
将にはわかっている。
聡が今も見守り続けているのは、将の幸せであり、将のすべき使命なのである、と……。
聡は、将をみていた。
インターネットがあるおかげで、将のことは地球のどこにいてもわかった。
こうやって遠く離れた国からでも、将の活躍がわかる限り。
聡のしてきたことは無駄ではないのだ。
近くにいると苦しいだろう。
だから。こうして遠くで見守るのがいい――。
将が残した娘の成長と、将の活躍を遠くから見守ること。
それが聡の喜びであり生きる支えだった。
数年後、将は俳優から東京都知事に見事当選した。
そしてまもなく、血のつながらない従妹と結婚をし、子供が生まれた。
将の成功。
幸せな将の家庭。
将の幸せが盤石なものとなっていくごとに……聡はそれを心から喜んだ。
これで将も、自分も惑うことはないだろう。
自分が将の幸せを、邪魔する可能性はなくなったのだ――。
それでも、だんだん遠くなっていく二人の距離に、古い傷はかすかに痛んだけれど。
「今は……娘と――陽と暮らしているんです」
儚げに色づく光の中で、穏やかな声は続く。
こうしていると、二人ともあの頃のまま、年をとったように将は錯覚してしまう。
激しい抱擁も。
苦い懊悩も。
ひきちぎられるような別れのつらさも。
何もないあの頃のまま。
あの頃、放課後の教室で向かい合っていた頃。
あのとき、聡を包んでいたのは、もっと鮮やかな夕陽だった。
だけど、今の淡いいろも、悪くない。
夢で逢ったときのように。
自分たちは、これからなのかもしれない。
希望のひとかけを溶かしたような淡い、暖色……。
「陽は、鷹枝くんによく似ています。顔も……性格も」
聡は置いたティーカップの中にいとおしい娘が見えるかのように微笑んだ。
「あの娘は、リセで映画作りのようなことをやっていたんだけど、思えば俳優としての才能もあなたから受け継いだのね……」
大学進学のために日本へ渡った陽が、思いがけず女優として成功して。
なにもかも思い残すことはない……そう思った時に、病はやってきた。
2年前のことだった。
病の大半は、聡の体の一部ごと除かれたものの……完全になくならなかった。
それは遅かれ、再び大きくなり、いつか聡の命を奪っていくのだろう。
あのときの巌の意志を継ぎ、半年前、ついに総理まで上り詰めた将。
それは聡にとって最後のプレゼントになった……。
「……でもね。病気をしたせいか、陽もできるだけ一緒にいてくれますし……。もう、何も思い残すことはないわ」
何もかも、乗り越えてきた笑顔は……深い翳をものともしないようだった。
時は、もう戻らない。戻せないのだ。
その穏やかな表情はそう語っていた。
そのとき、ドアがノックされる音がした。
「総理……申し訳ありませんが、お時間です」
三島の声がした。
忙しい将は、次のスケジュールが詰まっている。
将は聡の顔を、いまいちど見つめた。
さっきまで射していた陽は翳ってしまったようだ。
赤みのまったくない窓からの薄明かりの中で、聡の顔は磁器のように真っ白だった。
それは一瞬、菊の花の白を想像させ――将の背筋は一瞬震えた。
これが最後。
脳裏にひらめく事実。
聡と顔をあわせるのはこれが最後になるかもしれない。
次に逢うときは……。
菊の花にうずもれた聡がサブリミナルのようにフラッシュする。
恐ろしさに思わず息を止める将の前で、聡は自ら席を立った。
「……待たせてはいけないわ。いきましょう」
まだディナーには早いのだろう、レストランに他の客が残っている様子はなかった。
警備上、客が入らないように予め手配しておいたのかもしれない。
重い扉を開けると、冷たい空気が一気になだれこんできて、二人は目を細めた。
ハイヤーはもう到着していた。
将が聡のために用意させたハイヤーは、その漆のような艶を乗せたボンネットに、いまにも降り出しそうな重い雪雲をくっきりと映しだしている。
さっきまで淡い色を個室に送り込んでいた太陽は、その雪雲に隠されてしまったらしい。
雲の輪郭だけが冷やかに輝いている。
たった2時間ほどの間に、ぐんと気温は下がったようだ。
「また少し、降ったみたいね」
聡が口を開く。
玄関前の植栽の葉に、粉砂糖のような雪が溶けずに残っていた。
その雪は……いろいろなものを思い出させた。
おそらく、二人とも同じ想い出をたどっている――口にしなくてもわかる。
そのかわりに、将は問いを口にしてみる。
「あなたは……先生は、幸せなんですね」
一瞬か、それとも長い時間か。
二人の視線が交差した。
この世で最後の邂逅――。
二人を隔てる空間に、ふいに白いものが横切った。
二人の視線は知らず、その行く末に集まった。
……風に舞って、ゆっくりと落ちていく雪。
雪は路面に着地したとたん、あとかたもなく見えなくなった。
それに代わるように、あとからあとから白いものが天から舞い降りてくる。
絶え間なく舞い降りる思い出のように。
あるいは万感の思いを代弁するがごとく……雪は無数に舞い始めた。
「……ええ」
雪に促されたようだったけれど……聡はしっかりとした声で答えた。
低いけれど温かみのある声。
25年前と変わらない――。
「鷹枝くんは?」
返される問いに将は、迷う。
自分は幸せなのか。
朝までは、自信をもってそう答えられたはずだ。
だけど。
心の底に凍らせていた、さまざまなものが解けだした今――。
――昔のことだ。
――終わったことだ。
――自分はもう大人なのだ……。
何度となく言い聞かせつつ、封じ込めてきた思い。
それがいま、将の胸をどうしようもなく乱している。
将は答えることができず、ただ目の前にいる聡を見つめた。
25年前、自分の幸せよりも……と命を賭けるようにして、この道を選んできた瞳。
将の幸せを願ってやまなかったひと。
そのひとを前に、どうして迷いを口に出せようか。
……将はかみしめた唇が見えないように、うつむいた。
それはうなづいたように見えるはずだった。
聡が望んだ幸せを、どうして否定することができるだろうか。
下を向いた将の足もとに、雪が筋のように流れ始めた。
雪は、今度こそ本格的に降りだしたようだ。
「……寒いでしょうから、どうぞ、お乗りください」
三島の声に、将は顔をあげた。
聡は、もう一度深く頭を下げると、ハイヤーに乗り込む。
うつむいた長い睫が白い頬にいっそうくっきりと浮かぶ。
何か、もう一言……そう思った将の前で。
ドアが、閉じられる。
聡は窓の中から将を見つめていた。
色がついた窓ガラスを、音もなく雪がなぞり、落ちていく。いく粒も、いく粒も。
その中で、その表情は、もはや朧げで。
それを確かめようと、将が一歩踏み出そうとしたとき、ハイヤーはゆっくりと発車した。
「いやー、本格的に降ってきましたね」
三島が天を仰いだ。
雪は3月に東京に降るものとしては類をみないほどひどく、視界を霞ませていた。
将は立ちつくしていた。
雪はハイヤーをあっという間に霞ませ……視界から消した。
将はハイヤーが消えたあたりから目が離せなかった。
「総理。雪が積もる前に会場に向かいましょう」
三島が促す声に、無意識に腕時計を見る動作をつくる――そのコートの袖口に、ふいに舞い落ちる白の1つがくっついた。
六角形の、雪の華。
よく見ようと目を凝らしたとたん解けて……まもなく消えてしまった。
そこにあったことすら幻だったように。
――消えてしまう。
将は、天を振り仰いだ。
太陽はどこにも見えない。
その代りに……雪は散華のように、将に向って一斉に舞い落ちてきた。
あのニセコの頂上。
これよりもっとひどい吹雪に閉ざされたあの雪の中で。
すべてが凍りつくような寒さの中で。
将は確かに聡を探し出した。
すべてが絶望的な世界の中で聡だけが温かかった。
それまで真っ暗だった将の世界を明るく照らし出した、太陽。
聡を失ったときでさえ。あきらめたときでさえ。
将は聡の光を、ぬくもりを、支えにしていなかったか。
将は知らず、左胸のあたりに手を触れている――聡の万年筆があるあたり。
聡が、遠くから将を見ていてくれたように。
将とて――聡を感じていた。
捨てられた、と嘆きながら……心の底では聡のぬくもりを思い出していた。
そして、この世界のどこかから、聡が自分を見ていることを予感していた。
それが、もうすぐ。
消えてしまう。
もうすぐ、聡は消えてしまうのだ。
この世のどこにも、いなくなってしまう。
どこを探しても……聡には二度と逢えなくなってしまう。
距離よりも。
モラルよりも。
法律よりも。
もっと絶対的な――この世とあの世の結界によって二人は永遠に隔てられてしまうのだ。
聡のいない世界に、たった一人で取り残されてしまう。
こんどこそ、本当に――。
将は身震いした。
そしていま一度、目の前にある一面の白を見ようとした。
目に沁みるような風雪にこらえながら、必死で目をこらしたが、ハイヤーの姿はとうに見えなかった。
ただ、まっ白だった。
それは、将のすべてをも白紙にしていく。
これが最後なら。
あの人との最後の別れなら。
このまま、今生で逢うことはないなら……。
それでいいのか。
あの人を、このまま、永遠に失ってしまっていいのか。
『アキラは、俺の太陽だから』
太陽を失って、それでいいのか。
白紙になった将が思い出すのは――欲するのは、ただ温かい陽の色だけ。
あの吹雪の中で、聡しか見えなかったように。
「総理!」
三島の叫ぶ声は、もはや将には届かなかった。
まっ白の中に、将は駆け出した。
<了>