おまけ続編・2014年のクリスマス(2)

「……アキラ」

自分の名前を呼ぶ、懐かしい響き。

それを思い出の中の声だとしか思わなかった聡は、飽かず、モミの木と夜空を眺めていた。

「お母さーん!」

走りよってきた陽が、不自然な方向を向く。

「……だれ?」

聡にすがりついてきた陽の視線の先に……聡は、誰よりも懐かしい、愛しいその人を見つけた。

「おまたせ。アキラ」

トレンチコートを着た将は、すこし恥らったように、でも少し気取った笑顔で近寄ってきた。

6年ぶり。かなり大人っぽい雰囲気だけど、そんな表情は変わらない。

「……将」

何か声をかけたいけれど、言葉にならない。かろうじて名前だけを呼ぶことができた。

ただ涙がたまって、懐かしい顔がかすんでしまう。

聡のそばまでやってきた将はいったん、しゃがみこむと

「メリークリスマス。ひなたちゃん」

と陽の頭に手を載せた。陽は目を見開いてとまどっているようだった。

だけど、幼い子にも、なんとなくわかっているようだ。

そう、ボストンで1ヶ月前。

『あなたのお父さんは別の人なの……』

その別の人が、この人なのか。再び聡を見上げる陽は、何かを確かめたいような顔だった。

陽の視線と一緒に将は、すくっと立ち上がると、

「メリークリスマス。アキラ」

と微笑んだ。

「……どうして?」

どうしてここに? と訊こうとしたそのとき、聡のスマホが大きな音を立てた。電話らしい。

聡は将の顔から目が離せないながらも、画面を確認した。ロマーヌだった。

『アキラ、ごめんね! でも無事に生まれたわ! 男の子よ! 今、どこにいるの?ごちそうが用意できなくて本当にごめんね。素敵なプレゼントを用意したんだけど……』

早口でまくしたてる声がもれている聡のスマホを、将が横から取り上げる。

「アロー、ロマーヌ。聡へのプレゼントは無事に届いたよ」

聡は将がフランス語を話すのを初めて聞いた。

『アロー? 将? アキラには無事会えたのね! アロアロ(もしもーし)?……』

ロマーヌの問いかけに、もう誰も答えなかった。

聡は、すでに懐かしい将の体温にすっぽり包まれていた。

優しい賛美歌が、優しい光が、祝福するように3人を包んでいた。

 
 

「……アキラ、アキラ!」

呼びかけに、聡の意識はふいに戻った。息苦しい。何かが鼻と口を覆っている……。

意識が戻ったのを見届けて、医師が、酸素マスクを聡からはずした。

「アキラ、気がついたか」

「お母さん! よかった……」

将と陽が自分を見下ろしている。

それを見て、聡は自分が夢を見ていたことを悟った。

ずいぶん昔の夢。もう20年も前の……。長い夢だった。

夢の中の将は、ずいぶん若かったし、陽もまだ子供だった。

今、目の前で、必死で聡に呼びかける将は、もう若くはない。

涙を浮かべている陽は、すっかり大人の女性だ。

……そうだ。今、自分はまさに命の終わりを迎えているのだ。

陽の涙を見て、聡は思い出した。

3年前に余命2年と告知された病気が、ついに聡を連れて行くときがやってきたのだ。

「将…、陽も」

聡は二人の顔をよく見ようとした。

そしてそれぞれの……懐かしい思い出を反芻しようとしたが、思い出せない。

聡は混乱した。

記憶がぐちゃぐちゃになっている。

目を覚ます前に見ていた夢、あのパリのクリスマスはたしかに現実だったはず。

そうでなければあんなに細部まで覚えているだろうか。

しかし、その後過ごしたであろう3人の幸せな日々はまるで……まったく思い出せないのだ。

あれは、夢?

考えてみたら陽は、聡一人で育てたような気もする。

そしてたしか、女優になった陽を聡は映画館で見た。

「お母さん、しっかりして」

しかし、今そばにいる陽は、すっぴんに地味なセーターを着ていた。

後ろに小さなクリスマスツリーがキラキラ点滅している。

目の前で泣いている陽には、売れっ子女優のような華やかさはない。

カンヌで賞をとるような女優なら、こんな地味な格好で素顔で泣き顔を見せるだろうか。

それに、将は……そうだ、総理大臣になったのではなかったか。

雪が降る日に、レストランで再会を果たし、昔話をしたような気もする。

いや、そんなはずはない。

一国の首相が、公務を放り出してこんなところに来るはずがないじゃないか。

今、目の前にいる将の髪には白髪が浮いている。

その白髪を、最近間近にみつけて、

「将にも白髪があるのね」

と戯れに言った。聡の病室に付き添ってくれた将は

「俺だって、もう45だぜ」

と、45らしくなく口を尖らせた。家族でなければ、こんな風に付き添うはずがないじゃないか。

じゃあ、総理になった将は、聡の夢?

聡は将に、巌との約束を守ってほしかった……そんな願望が見せた夢?

そうだ、そうに違いない。

そうでなければ、どうして将が陽と二人で自分の最期を看取ろうというのだ。

だけど、将には息子が二人いたのでは?

たしか育ちのいい奥さんがファーストレディを務めていたのをネットで見た……。

それに、総理としてテレビに出演していた将を見たときの、胸がつまるような、あの嬉しさとせつなさ。

それも夢にしてはリアルすぎる……。

もはや、聡には混沌としていた。

「将、あなた、いったい……」

将が今、何をしているのか、巌との約束はどうなったのか、聞こうとして、聡はやめた。頭の中が急に冷たくなってきたから。

あのクリスマスから将と陽と3人一緒に人生を歩んでここに至ったのか、それとも別々の道だったのか。

わからない。まったく、わからないけれど。

今、3人はここにいる。将はここに来てくれた。

だから聡は、記憶をたどるのをやめて、目の前にいる愛しい人の顔をよく見ようと思った。

意識が再び、かすんできた。

意識が限りなく白くなってきた。もうすぐ無になる。

愛する人の面影を、今一度この心に焼き付けて、逝こう。もはや悔いはない。

聡は最後の力を振り絞るようにして、将を見つめた。

 
 

<続編・了>