第56話 ホテル(1)

博史の視線を照射された聡は、メデューサに魅入られたがごとく動けなくなった。

ただ無意識に将にからめていた腕をはずし、将のそばから一歩下がった。

将は聡の腕が離れて初めてこちらを見ている博史の存在に気づいた。

――この男が……。

将は視線に力を入れた。それは博史の顔をよく見ようと目をこらしたから……だけではない。

博史は、むしろほほえんでいるような顔で、こちらに近づいてきた。

……強い風が吹いて、雪が舞乱れた。

ついに、将の目の前、殴ろうと思えばお互い殴れる距離に博史が立った。

聡は、博史のほうを凍りついたように見て、ただ唇をふるわせていた。

17歳の約2倍、33歳だという男は、将のことなど見ていなかった。さっきの低い声とはまるで違うやさしい声音で

「教え子さん?」と聡に訊いた。

訊かれたとたん聡は下を向いた。かすかに肩がふるえている。

将は聡を守ろうと自ら口を利いた。

「古城先生の教え子で鷹枝将といいます」

視線は博史の顔に残したまま、頭を軽くゆっくりと下げた。

博史はそこで初めて将のことを一瞥――つま先から頭まで一通り――し、最後に目をあわせて

「原田です」

と低めの声で苗字のみを名乗った。当然ながら頭は下げない。

笑顔に見えるその細い目は何もかも知っている目だった……つまり将のことを間男として蔑ずむべく、目の奥には憎しみがやどっていた。

「教え子さんとパーティだったの?」

博史は笑った顔のまま、目の奥で将をにらみつつ言った。

聡はあいかわらず下を向いたままだ。長い睫がふるえているのがわかる。そのようすが聡を守るべく将にウソをつかせた。

「そうです。他にもメンバーがいるし、僕はただ迎えに来ただけです」

――こんなくだらない嘘、信じるはずがない。

将はわかっていても嘘をつくほかはなかった。

「先生、言ってた彼氏ぃ?」

下を向く聡のほうを見て、演技を続ける。聡は泣きそうな顔で一瞬将の顔を見上げた。しかし、すぐに博史の視線を感じて、視線を落とす。

「そうよ……」

将の気遣う視線がわかった聡は、かろうじて声にすることができた。

「……どうして、ここに?」

不自然でないように、博史に訊き返そうとしたが、恐くて博史の顔をどうしてもまともに見ることができない。目を伏せてしまった。

「さっき言ってた、今日付き合ってほしいところの店じまいが、思ってたより早かったんでね。それから、だめモトでキャンセル待ちしてたホテルが空いたという連絡が急に入ったんで追ったんだ」

ホテル。今夜、博史が聡を抱くために用意した部屋。将は思わず再び博史への視線を強めてしまった。

博史のほうはとうに将のほうなど見ていなかった。聡の肩に手をかけると、優しい声で

「来てくれるね?」

と言った。

今度は将が聡を見つめる番だった。思わず奥歯を噛み締める。

――いやだ。

せっかく逢えたのに、他の男に抱かれるために行ってしまうなんて。

将のすがるような目線を感じたのか、意外なことに博史は

「君も来る?」

と将に声をかけた。将は、そして聡も、え?と目を丸くして博史の顔を見た。

博史は、その二人の表情がそっくりなことに嫉妬したが、ひっこみがつかない。

――ここは遠慮するよな、普通。

という思惑は見事はずれた。

将はことさら明るく笑顔をつくり

「ええー、いいんですかぁ。俺どうせ暇だからうれしーなー」

と鈍重でバカな小僧を演じきった。それはひとえに聡が博史に抱かれるのを阻止するためだった。

 

 

 
さっきは舞っていた雪は止んでしまっていた。

混んだ通りを避けて、3人は少し歩いて別の通りに出てタクシーを拾う。もちろん交わす言葉などない。

タクシーに乗り込むときに、聡は遠慮がちに初めて博史の顔を見て

「あの……、どこに行くの?」

と問いかけた。博史は細い目で微笑みながら、聡を先にシートに座らせて

「いいところ」

とだけ答えた。運転手には「○○パークホテルへ」と告げた。

その隣に博史が乗り込んだところで、将は博史の隣に――つまり後部座席に3人並んで座ろうとした――ジーンズの腰を押し込もうとした。

博史はあきれて

「君は助手席」

と命令した。

「あー、すいませーん」

将はえへへと笑うと後ろ頭を掻いた。これも鈍くてバカな若者を演じるアドリブなのだが。

――3人でホテルなんて、何を……。

聡は、博史がどういうつもりだかが理解できなかった。

 

 

 
タクシーは今度は順調に夜の街へ向かって滑り出した。

将は後ろの座席が気になって仕方がなかった。しかし助手席というのは意外に後ろが見えない。バックミラーは運転手専用のようなものだし、サイドミラーは暗くてよく見えない。

そうかといって、後ろをしょっちゅう振り返るのは、聡の立場を考えると博史がいる限り、難しかった。仕方なく将は精神を集中して後ろの会話に聞き耳をたてた。

タクシーが動き出すなり、博史は聡の手の甲に自分の手を重ねた。

聡は一瞬びくっと体をふるわせたが、何も声をたてられない。心臓が存在を主張し始める。

行き先を見るような振りをして前をみつつ目の端で将の姿を追った。

しかし前の車の赤いテイルランプに照らされたボサボサ頭は前を向いたままじっとしているだけだ。

博史は聡の顔を見ながら、聡の手をさすった――自らの指をたてて、聡の指と指の付け根の柔らかい部分を、さするように愛撫する。

それは主に愛しあったあとによく行われた慣れた行為だった。

聡は目を伏せて、触れられた手を固く握ることで指の股に挿し入れられた博史の指を追い出そうとした。

すると締め出された博史の手はだいたんにも、聡の太ももに取り付いた。

博史とは逆の方向に閉じて揃えられたそれはスカートとストッキングに覆われていたため、博史はしばらく布地の上から太ももの上を往復しはじめる。

聡は再びびくっと体を硬直させると前を――後姿の将の髪を再び――今度ははっきりと助手席のほうを見てしまった。

次に、しまった、と博史の顔を見た。鼓動が早くなるのがわかる。暗い車内で、細い目のはずなのに博史の白目がピカっと光った。

そのまま、手を伸ばして太ももに這わせた手を、膝あたりにあるスカートの裾に持っていくと、膝の内側に手をかけて、そのままグイ、と引いて聡の足を開脚させた。

「やめて」

思わず、聡は大きな声を出してしまった。心臓は胸から飛び出しそうなほど暴れている。

もはや振り返っても不自然ではない声に、当然将は後ろを振り返る。

運転手もバックミラー越しに興味津々なのがわかる。

博史は手をさっと引っ込めて知らんふりをすると、聡に微笑んだ。

「冗談だよ。バカだな」

そういうと将の見ている前で――将の視線を十分に意識しながら――後ろから手をまわして聡の頭を撫でた。

将は、何もいえず、無表情をとりつくろって再びゆっくりと前を向いた。髪に聡のすがるような視線がからみついているのがわかる。

「なあ、聡、明日学校休める?」

博史は聡の髪をいじりながら訊いた。

「どうして?」

声がうわずってしまっている。

「明日こそ、両親に紹介したいと思ってさ」
「……ずいぶん急ね」

少し低めの声は、暗に強引な博史を非難したつもりである。

「実は、結婚を早めたいんだ」

博史の声は落ち着いたものながら、車内に響いた――もちろん将に聞かせるためだ。