第33話 急接近(4)

 
右手の親指にシャンプーがしみて、聡は我に帰った。

気がつくと、聡は自分の部屋のバスルームにいた。

将のマンションを出てからどうやってバスルームまでたどりついたかを、聡はほとんど覚えていなかった。

タクシーのシートにもたれて、流れゆく街の灯りを見たことだけ、なんとなく覚えている……。

ぼんやり髪を洗っていたら、ばんそうこうがずれて、さっき包丁を滑らせた傷にシャンプーがしみたのだ。

将のために将の部屋で料理をつくってできた傷。

ずれたばんそうこうはふやけてほとんど用をなさなくなって、ただ親指の傷口に粘着していた。

聡はシャワーの栓をひねった。高い位置にあるシャワーからは雨のように湯が聡の体にかかった。

その中で、ばんそうこうを剥いでしまおうとして、聡はその手を止める。

将の家にあったばんそうこう。

『ほい』とばんそうこうを置いた将を呼び水に、今日の将の思い出が怒涛のようにあきらに押し寄せた。

タクシーの中で握った手。

おでこへのキス。

二人で買い物したときめき。

聡がつくった料理を旨いと、食べる将。

聡の傷ついた親指を唇にあてる将。

そして暗闇で押し倒されての抱擁。

そして……聡からしかけた深いキス。

蘇る将の声。

『博史にはまだ食わせてない、って言ってたよね。俺ラッキー』

『食器洗いついてるから、使って。傷にしみるだろ』……

『こんな風に教え子を誘惑されるなんて!』
 
甘い思い出の中に、将の義母の声が雷鳴のようにとどろいた。そのまま聡の脳裏をこだまする。

確かに、自分は誘惑した。

17歳の将の唇に自分から舌を挿し込んだ行為は『淫行』だといわれても仕方がない。

あのとき、聡の本能は、将と行き着くところまで行くことを望んでいたんだと思う。

本能は本心だったのではないか?

聡はシャワーの雨に打たれて、あまりに鮮やかな今日の前にただうなだれていた。

シャワーからあがった聡は、飾り棚の博史の写真と目が合った。

でも博史は遠い過去になってしまっているかのように心は冷たく固まったまま動かない。

わかっているのだ。

将への想いは断ち切って、ダイヤの指輪をくれた婚約者と何もなかったように結婚すべきだと。それがお互いのためだと。

だけれど。聡は、自分をきつく抱いた将の腕を、もう忘れることはできない。

唇も舌も手のひらも指も、将以外の男を忘れてしまったかのように、もう彼しか考えられない。

なぜ、教師と生徒なんて立場になってしまったのだろう。

聡は一瞬、教師をやめた自分を夢想した。やめて、ただの男と女になって……。

――だめだ。

聡の心に1枚のアンケート用紙が舞い落ちる。

『今、何をしているときが一番楽しいか』
……アキラと二人きりでいるとき。

『これから始めたい趣味はあるか』
……アキラが喜ぶことぜんぶ。

それは喉が痛いのを堪えて聡のために、大声を出して弁解するさっきの将と重なった。

将は自分のために、すべてを捨てるに違いない。そんな危惧はより確実となって聡を襲う。

許されない恋をまっとうすることは、彼の人生をめちゃくちゃにすることを意味するだろう。

聡は、写真の前に置いた、びろうどの指輪ケースを手にとって蓋をあける。ダイヤがあいかわらず美しく煌いた。

聡はエンゲージリングを右手の薬指に嵌めてみる。親指には、くたびれたばんそうこうがまだ未練がましく貼り付いている。

薬指のダイヤに、親指は汚いばんそうこう。

用をなさないそれは「将がくれた」、ただそれだけの理由でくっついている。

聡は、ばんそうこうを剥いだ。

ばんそうこうはあっさりはがれると、単なるゴミとなった。

ばんそうこうに覆われていた皮膚は白くふやけ、ぱっくりと切れた傷口からは赤っぽい肉が少し見えている。

血はとまったようだが、心が痛い。

テーブルの上でゴミになったばんそうこうを見て聡の目には涙が盛り上がってきた。

そのとき、テーブルの上で携帯電話がメールの着信を告げた。

将からだった。

義母に、学校によけいなことを言わないよう、きつく口止めをしたから大丈夫だ、ということ、それから明日の待ち合わせ場所が記してあった。そして

『明日は絶対こいよ』と付け加えてある。

聡は携帯を握り締めた。涙はとうとう溜まりきれず、聡の頬をつたった。

落ち始めると、とめどがなく、流れて顎からぽたぽたと落ちて、それはテーブルの上に小さな水溜りをつくった。

そこは2ヶ月前、突然休日に来た将が座った場所だ。

何もかも、将の思い出につながってしまう。聡の世界はすでに将で満ちている。

そんな自分の中から将を消せるだろうか。

将のいない世界に生きることは可能だろうか。

この想いも単なる気の迷いとして笑える日がくるのだろうか。

聡にはすべてが不可能なように思えた。

だけど、決意しなくてはならない。

聡は自分の心が、ちぎれていくのを感じている。