第420話 最終章・また春が来る(28)

康三の勧めがきっかけとなって、聡は地元にある日本人の子息向けの日本語補習校で働き始めることになった。

陽が3歳になった年の秋である。

博史が聡に自分の子供を望んでいる状況は変わらなかったが、何せこの3年間、努力して子供はできなかった。

少し生活を変えたほうが、いい影響になるかもしれない……そう思ったのか、博史は承知してくれた。

その博史はその年までで博士号を取得することに成功したが、大学に残留し、研究を続けることになっている。

おそらく――自分と聡との間に子供ができて、二人の間の絆がより確かになるまで、日本への帰国を遅らせたい――そんな思いがあったのだろう、と聡にはわかっていた。

ともあれ、その9月は、聡にとって生活ががらりと変わった月だった。

聡は講師として就職し、陽は幼稚園へ。

ひさびさのお勤めでただでさえ忙しい聡だったが、そこへ陽の送り迎えが加わる。

博史も休みなら手伝ってくれるが、彼も何かと忙しい。

隣のリズおばあちゃんには、謝礼を出して手伝ってもらっているものの……高齢ではあるし、そうそう隣人の善意ばかりに頼るわけにもいかない。

「若いベビーシッターさんを頼んでみれば?」

親切なリズの提案に従うしかなかった。

そして同僚に頼んでやってきたのが……。

 
 

「ロマーヌが……? 彼女、ボストンに留学してたんですか?」

もう何年会ってないだろうか。そんなことを思いながらも、将は懐かしい名前を繰り返す。

「ええ。大学3年だったかしら。建築を勉強しにフランスから来たばかりでね。それでうちにベビーシッターとしてやってきたの」

「陽さんが、ロマーヌさんのベビーシッターをしていた、とお伺いしましたが」

敬語を使う自分が……、使わざるを得ない自分の立場が、将はもどかしい。

「ええ。十年以上あとにね」

聡は懐かしそうに頬を緩めた。

「ロマーヌさんが陽の面倒を見てくださった恩返しに、今度は陽がロマーヌさんの2番目のお子さんの面倒を見ることになったんです」

そうやって表情を和らげると、聡の目じりには細かい優しげな皺が寄る。

だけど、それはちっとも彼女の魅力を妨げるものではなく……かえって、その皺が刻まれてきた時間を一緒に過ごしたかったと、将は帰らない時間をむやみに取り戻したい衝動に駆られる。

「ロマーヌさん、とってもチャーミングな方でね。総理のこともよく覚えていました」

聡がロマーヌのことをここでわざわざ口にするということは、当然、将の話題が二人の間で交わされたということだろう。

どうやって、その話題に至ったのか。

将の興味はそこから――次第に聡がどんな気持ちで、自分のことを話したのか、というところに移ろっていく。

そのころには案外、聡は自分のことはすっかりふっ切れていて……単なる思い出話になってしまっていたのか。

いや。

即座に、将は思い出す。

『母は、泣いていました』

という陽の声を。

なぜ。

聡は博史と別れてフランスへ渡ることになったのか。

そして、聡の中の自分の行方は――。

「フランスでの暮らしが長かったと聞きましたが……、どうして原田さんと別れたのですか?」

葛藤の末……将は思い切って、問いを声にした。

……聡の柔らかい表情は、変わらなかった。