第95話 敵意

聡は何と答えるべきかわからず、

「3ヶ月、ですか……」

と聞いたことを反復するしかできなかった。眠っている葉山瑞樹のほうに視線が行ってしまう。

離れているのに、閉じた瞳を黒く長い睫がふちどるのが見える。

わきに制服が畳んで置いてある。……おそらくホテル備え付けの浴衣を着ているのだろう。

「……葉山さんが自分で言ったんですか?」

次の言葉が出てきたのは、ずいぶん間があいてだった。

山口は「ええ」と頷いた。

瑞樹は、今日の夕食を食べることができなかった。

レストランに入ったとたんに充満していたジンギスカンの匂いで吐き気をもよおしたのだ。

それは聡も知っていた。だからレストランに頼んで、あっさりとしたメニューを部屋に届けさせたはずだ。

「ええ、でも私、昨日からちょっとおかしいと思ったんで、みんながお風呂に入っている間に、葉山さんにこっそりと訊いてみたんです。一人でいたんで……」

山口はソファに腰掛けながら話を続ける。

「そのときは、何も言わなかったんですが、彼女のほうから、気分が悪いとかで、部屋に来たんです。それで打ち明けてくれたんです……」

「そうですか……」

聡も山口の向かいに腰を下ろし、自分の膝の上に頬杖をついたとたんにため息が出た。

3ヶ月。

12月、11月、10月。

妊娠経験のない聡は、『3ヶ月』の言葉どおり、3ヶ月前に遡った。

10月頃、瑞樹は身ごもったことになるのだろうか。では誰の子を。

将は……違うだろう。彼ははっきりと『9月からは彼女とはやってない』と言っていた。

しかし、なぜ胸騒ぎがとまらないのだろう。

10月頃、自分たちの関係はどうだっただろうか。将と聡の関係は。聡は初めて、苦い思いで将との思い出をたどる。

 
 

「先生、大丈夫ですか? 顔が青いですよ」

山口がうなだれる聡に声をかけた。

「先生の責任というわけじゃ、ありませんから。最近の若いコにはよくあることです」

聡の様子を、担任教師としての責任感に由来するものと捉えたのか、山口はそんな慰めの言葉をかけた。

「お茶でも淹れましょうか」

山口は気を利かす。

「あ、私が……」

立ち上がった聡は、まだ山口が風呂を済ませていないことに気付いた。

「山口さん、せっかくですから、バスルーム使ってください。また、生徒たちが来たら、しばらく使えないでしょう?」

ようやく、気を遣うと共に、微笑をつくることができた。それは上出来とはいえない固い顔だろう、というのは自分でもわかる。

「そうですね。じゃあ、お言葉に甘えて」

山口は柔らかい笑顔で答えると、手早く支度してバスルームに消えた。

残された聡は、窓辺に寄ると、外を観るともなく目を暗闇に泳がせようとした。……が、客室が明るすぎるのか、ガラスは聡のうかない顔と、その奥に眠る瑞樹を映し出した。

聡は、カーテンを閉めると、所在無く、テレビを付けた。

寝ている瑞樹に配慮して音量は絞る。どこかで天気予報でもやっていれば、と思ったのだ。あいにく、タイミングが悪かったらしく、まだしばらく待たなくてはならなそうだ。

聡は、そのまま、バラエティ番組を映し出すテレビをつけたままにして、ソファに腰掛けた。

囁くようなボリュームで聞こえる芸人やタレントの笑い声は、本来の役割である『賑やかし』を果たすこともできず、空虚に響く。

聡は再び、3ヶ月前に思いを馳せる。

将は、最初から聡への好意をあからさまにしていた。

9月にデートをして、告白されて……何日もしないうちに手を握りあって歩いたはずだ。

聡の脳裏に、夕暮れの海やフランス料理店、東京湾岸の夜景が次々と鮮やかに蘇る。

こんな状況で思い出しているのに、思い出は聡の心を温かくさせる。

それから、週1ぐらいで夕食を共にするようにしていたはずだ。10月といったら、その頃だ。

あれは、宣言はしてないものの『付き合って』いたようなものではないのだろうか。

聡の心に『アキラー』と呼ぶ将の声がリフレインする。明るい声、むすくれた声……そして囁き声。

『アキラ、愛してる』

たった今、囁かれたようにそれは鮮やかだった。思い出は、思わぬ涙を連れてきた。聡は、急に湧き出た涙を手でぬぐって、考えを先に進める。

ああいう状況で、将が他の女を抱くとは、やっぱり考えられない。

だから瑞樹のお腹の子は、将の子ではない。聡がそう結論付けたとき、携帯が鳴った。

それが将だったことを、聡は吉兆だと無理やり思い込むようにした。

「アキラー? 何やってんだよ。ケンちゃん一人なのに大富豪になっちゃったよ」

能天気な将の声。聡とペアを組んでいた兵藤は、あとで相当ツキがまわってきたらしい。

「……ごめん。もう少し待って。今山口さんがお風呂だから……」

「あっそー」

「将、いや鷹枝くんは、どうなの?」

瑞樹が万が一、目を覚ましてるといけないので、苗字で呼びなおす。

「俺、今、やっと平民~」

将はえへへ、と電話の向こうで笑う。その笑い声に聡は癒された。

「真田さんは大丈夫なの?」

「ああ、ユキコ? 変わろうか?」

将の声の向こうで、『ええー、ヤダー』と真田由紀子の照れた声が聞こえる。すっかり元気になったのだろう。

聡は、もう少ししたら行く、と伝えて電話を切った。明るい気持ちになっていた聡の背後から

「せんせい。」

と低い声がした。

振り返ると、瑞樹が布団から身を起こしてこちらを見ていた。ショートカットになった瑞樹は、青白いほどの顔に、大きな瞳がいっそうきわだつ。

いつから、目を覚ましていたのか。

聡は一瞬、怖気づいたのをなんとか作り笑いの下に隠して、

「起こしちゃった? ごめんね……。なにか飲む?」

とあわてて、冷蔵庫のほうに近寄ろうとした。

瑞樹は、そんな聡の背後に向かって確かに言った。

 

「将の子だよ」

聡は手にしたグラスを思わず落とした。グラスは柔らかいカーペットの上で低くバウンドし転がった。

聡はグラスも拾わずに、恐る恐る、瑞樹を振り返った。瑞樹は、微動だにしないまま、聡を見すえ、もう一度言った。

「……お腹の子は、将の子だよ。せんせい」

『ウソ』反射的に出てきた言葉を聡は飲み込んだ。

瑞樹は聡の顔を凝視している。……あきらかに聡の反応を観察している。

受けた衝撃の外側で、かろうじて残った理性で、判ったことがある。

――この子は将と自分のことを知っているのだ。

そしてさらに。

瑞樹の側では、将はセフレなどではない。

将を愛していた……もしかすると、今も愛しているのかもしれない……。

瑞樹の今までの敵意の理由を、聡はようやく納得した。