第96話 演技

瑞樹の敵意を理解した聡は、意外なほど冷静な態度の自分に気付いた。

動揺していないといえば嘘になる。心臓はずっと鈍い振動を体中に送っている。

しかし、瑞樹の顔を正視し、なんと返せばいいか考えるだけの思考力は保っていた。

感情に任せて行動するなら、

『ウソ!』と叫ぶか。

『いつまで……関係があったの?』と震えながら問い詰めるか。

そんなところだろう。

しかし、聡は、冷静な態度を保ち続けていた。そんな自分が嘘のようだった。

この場合、教師として何と答えるべきか。そんなことを、さすがに動揺して働きがよくない頭で、なんとかシミュレートする。

将で考えるから、私情が入ってしまう。

それに気付いた聡は、身近な例で――例えば、兵藤が瑞樹を孕ませたら?という仮定でシミュレーションしてみる。真面目に寿司修行に励む兵藤に心の中で謝りながら。

だとしたら。

「……鷹枝くんには話したの?」

これが聡の出した答えだ。聡は瑞樹を見つめて問うた。こんどは聡が瑞樹を観察する番だ。挑むような気持ちである。さすがに気持ちまでは教師らしく在ることは難しい。

瑞樹はあきらかに想定外の聡の反応に面食らったようで、眼を大きく見開いた。

聡はもう一度同じ問いを繰り返してみる。

「言ってない」

眼を見開いたまま、抑揚のない声が返ってきた。

しかし、さっき『将の子だよ』と言ったときよりあきらかに落ち着きのない声に思えた。

「病院には行ったのね」

聡は、まるで自分は舞台で芝居をしているようだ、と思った。暴れる心臓を抱えながら、よどみなく巧く、教師、という役を演じる。

瑞樹は目を見開いて、それでも聡の顔から視線を逸らさずにうなづいた。

「ご両親はご存知なの?」

両親、と聞いて瑞樹はプイっと顔をそらした。

「知ってるわけねーだろ」

と小さく呟く。聡は、将から聞いた瑞樹の家庭のことを思い出した。

「……産む、いえ、産みたい?」

それを聞いて、瑞樹は、目をむいて聡を振り返った。

「産めるわけ、ねえだろっ!」

聡の、冷静に自分を見つめる瞳を見て、瑞樹はハッと我に返ったようだ。

「そう……」

聡は、瑞樹を見つめたまま、ソファに腰掛けた。

瑞樹は、取り乱した自分を恥じるように、少し笑いながら、

「センセイさ、自分の彼氏が……、影で他の女を妊娠させたって聞いて、何ともないの?」

と聡に切り込んだ。

聡は黙ったままだ。だが、視線は瑞樹からはずさない。

というより、はずせなかった。女の意地なんだろうか。それとも……将を信じているから?

そして瑞樹は、将を聡の彼氏、とすでに位置付けている。

聡が今、演じている台本の設定を、単なる担任教師から、教え子と恋愛する教師、に変えるべきか、迷った。

聡が沈黙したままなので、瑞樹はさらに生々しい言葉を続けなくてはならない。

「センセイとヤりながら、あたしともヤッてたんだよ。悔しくないの!」

それを聞いて、聡の心に何故なのか奇妙な安堵が広がっていった。

――たぶん嘘をついている。

直感。確信は持てないが……。

「鷹枝くんは」

聡は、もう、単なる教師を演じるのをここで止めた。瑞樹の嘘を暴くことに決める。

「9月以来、あなたとは寝ていないって、言ってた」

「そんなのウソに決まってるだろ」

瑞樹は即座に言い返した。

「前の女と続いてる、なんて素直に言う男がどこにいるんだよ」

それは確かにそうだ。再び劣勢になった聡は、再び教師に戻るしかない。

「……産むにしても堕ろすにしても、相手の人には言っておかないと、ね」

とだけ言って、立ち上がると、瑞樹を独り部屋に残して、廊下に出た。

 
 

廊下に出た聡は、困惑していた。

瑞樹は嘘をついていると思う。身ごもっているのは、たぶん将の子ではない。直感でそうは思うものの、確信を持つまでの証拠はない。

『信じて。俺、もう、本当にアキラだけなんだ。9月以来、アイツとは1回もやってない。本当だよ』

という将の言葉だけにすがるしかない。だけど。

9月まで、瑞樹と寝ていたのは事実なのだ。妊娠してもおかしくないような行為を重ねていたのは消しようもない。

むしろ、そちらのほうが聡を苦しめた。

そして、将に『それ』を禁じている聡は、将が本能のままに他の女に手を出さないとは言い切れない。

将はまだ若いのだ。手近に瑞樹のような女がいれば、そういう行為に至ってもおかしくはない。

聡は、どんどん自分の思考がマイナスのほうへ進んでいくのがわかった。

そのとき、メールの着信音が鳴った。

『まだ~?』と将から一言だけのメッセージ。

こんな気持ちで、みんなが楽しくトランプをしているところに合流できるだろうか。

将と……顔をあわせることができるだろうか。いや、むしろ今だからこそ将の顔を、見たい。

瑞樹の言ったことが嘘だという確信を得たい。

だけど……もし、本当だったら。

――怖い。

聡は、携帯を両手で握り締めた。知らず、祈るようなポーズになっている。

 
 

「センセイ、遅ーい」

「ごめんごめん」

聡が大富豪ゲームをする皆の元に戻ったとき、ゲームはもう最後の1回だった。

将が自分を見ているのがわかったけど、目を合わせられない。

「あいかわらずケンちゃんが大富豪だよ。で、俺たちまた大貧民」

何も知らずに将は、トランプを配りながら聡に現状を説明する。

「あら、そう。兵藤くん、何命令しようか~。楽しみだね~」

楽しげに、でも将の顔を見ないように笑顔をつくる自分。ここでも演技をしているようだ。さっきより難しい役柄のように感じる。

「でも、負けたら大貧民だし。立場逆転っすよ」

と兵藤は戦々恐々、というようすで、真剣に配られたトランプを目の前に広げた。

大富豪は一番悪いカード、大貧民は一番よいカードとを交換する。

最初はたいしたことのないカードだったが、交換することでどうにか勝てそうなカードになって、聡と兵藤はほっとした。

そこで、将と真田由紀子が顔を見合わせてニヤっと笑った。

大貧民はカードが不利な分、一番最初に出すことができる……そこでなんと、将たちは、1枚残してカードを全部出した。

「え!」

皆が驚いた。なんと、それは3が4枚、4が4枚、5が4枚でかつ、すべての3・4・5でマークが揃っていた。

もちろん後に誰も出せないから、残りの1枚を由紀子が出してゲームは終了した。

「ヤッター!」

将と由紀子はハイタッチをして喜んだ。

「ウッソー……」

大富豪から大貧民に転落が決まった兵藤はがっくりした。聡も信じられなかった。

「じゃ、罰ゲームねー」

王様ゲームの王様になった将と由紀子は、ゴショゴショと内緒話の末、由紀子が真っ赤になってコクンとうなずいた。

将はニヤリと笑って、兵藤と聡に命令した。

「この中で、一番好きな異性にキスをする」

「ええー!いないよー!」

兵藤がやや顔を赤らめて抗議した。聡も立場上

「ちょっとぉ、だめでしょ、そんなこと」

とたしなめながら、心臓がまた大きく振動を始めていた。

将が自分を見ている。……でも将の顔を正視できない。

「唇? 唇だよね?」

カイトが将に、ワクワクと聞く。

「ちょっと、カンベンしてよ~」

真面目に困っている兵藤と、教師としての聡の立場に少しは配慮したのか将は

「じゃ、おでことか、ほっぺたでもいいや」

としぶしぶ許してやりつつ

「じゃあ、センセイからねっ」

と促す。チャミやカリナら女子が再び、キャー、ヤダーという声を上げる。

皆が、聡は将にキスを与えるのだろうと期待している。

将自身も期待して待っているのがわかった。

能天気な将に、聡は少し腹が立って意地悪をしたくなった。

聡はおもむろに、隣にいる兵藤の頬に両手を添えると、その丸刈りのおでこに唇を寄せた。

その場にいたものは、兵藤の首から耳、丸刈りの地肌が、ピンクから真っ赤に染まっていくのを目撃した。

部屋は「キャー」とか「ウオオー」という騒ぎでいっぱいになった。

将は「ウッソォ」と呟いて唖然としていた。