第97話 視線

スキー研修2日目もよく晴れた。

1月にしては珍しく、羊蹄山もニセコアンヌプリの山頂もその白いピークを青い空にくっきりと浮かび上がらせていた。

将は腑に落ちない思いを抱えて、昨日よりは少し傾斜がきつくなった、それでも緩斜面にボーゲンでたどたどしくカーブを描いていた。

2日目は、個別の習熟度によってグループ編成が変わった。

昨日までの内容が巧くできて上の内容に移るグループと、まだ繰り返すグループとに分かれる。

将は当然、上のグループに入った。

おかげで講師はまたも、あのマッチョ講師だったが、将自身のレベルがあがるにつれて、彼がなかなか優秀な講師だということがわかってきた。

カマっぽい口調に、体をすぐに触るのには、少々閉口ぎみだが、何といってもわかりやすい。

おかげで、将は午前中が終わる頃には、ボーゲンながらターンがそこそこできるようになっていた。

昨日は制御しようのなかった雪の斜面が、気持ちのいいものに変化しつつあった。

もともと運動神経は悪くないのと、少しでも聡に近づきたいと頑張ったというのもある。

「ボーゲンがちゃんとできればぁ、理論的には45度まで滑れることになるのよ」

とお墨付きをもらう。聡に少しは近づけただろうか。

 
 

その聡が、昨晩から今朝にかけて、あきらかに変だった。

昨日、トランプのすぐ後に、消灯時間がやってきた。

消灯時間を守っていないのが見回りにきた多美先生にバレると、部屋のメンバー全員が廊下に1時間立たされる。

初日に井口とユウタの部屋のメンバーがそれをさせられた、というのが伝わっていたので、将は布団の中から聡にメールを打った。

『聡、さっきは何で、俺にチューしなかったんだよー』

プンプンと怒る顔文字を添えて送信する。

返信が来るのに時間が掛かった。スキーで体力を使った将である。暗いのと、布団が温まったのとで、急激に眠気が襲ってきた。

イヤホンにしておいた着信音で、自分が眠ってしまっていたことに気付く。

『だって、人前でそんなことできないよ』

と返信が返ってきた。

『ケンちゃんにだったら出来るワケ?』と訊き返す。

またずいぶん時間がかかっての返信には

『だって、将と私のことがこれ以上、みんなにバレたらマズいでしょ』

とあった。教師の立場としては、仕方ないのかもしれない、と将は一応納得する。

思い直して

『明日もスキーやるの?』

と話題を変えた。

『わからない。天気次第かな』

どうも、今日の聡の返信は、鈍い。行きがけのバスの中のようなチャット状態を楽しめない。

おかげで将は、待つたびに眠りに飲み込まれそうになる。

もしかして聡も眠いんだろうか。極限に眠い将の頭は、きっと、そうだろうという答えを導き出した。

だから……もう、おやすみの挨拶を送ろう。

マイスイート・ハニーがいいか、I LOVE YOU がいいかそれともジュテームとフランス語を使うか。

そんなことを考えているうちに将は、体の疲れに引きずられるように熟睡に落ちていった。

そのときは、まだ聡の異変に気付いてなかったのだけど。

 
 

あきらかにおかしいと気付いたのは今朝だ。

朝食の席でも、そのあとのミーティングでも、将はことあるごとに聡を見ていたのだが、聡は将と目があいそうになると、その視線をフイッとはずした。

今までも、人前の場合は、そういうことがあったが、今朝の場合は、なんだかその視線のはずし方が変だった。

単に人目をごまかすため、とは違う。

その証拠に聡もときどき将を盗み見ていた……なのに将と目があうと視線をはずしてしまう。

将は思い切って、朝食の後、皆がスキーの身支度をしているときに、口実を設けて聡たちの部屋を訪ねた。

「すいませーん。筋肉痛がひどいんでシップか何か下さい」

などと山口に頼むふりをしながら、ソファで書類を見ている聡を振り返る。

このときも、だった。聡の顔は……将がこっちを振り返るまで、将のほうを向いていた。

それを将が聡に向き直るなり、まるで『ダルマさんが転んだ』のように膝の上の書類のほうに頭をくるっと向けた。

「センセイ、何みてるのー?」

まだそれを偶然だと思いたい将は、明るく声をかけながら聡のわきに歩いていった。

聡が腰掛けるソファーの横にしゃがみこんで、小声で話し掛ける。

「アキラ、俺、Aグループだぜ」

スキーの習熟度別グループ分けの、上位に入ったことを聡に告げる。

「そう、よかったじゃない」

将が聡の顔をのぞきこんでいるのに、聡の視線は書類から動かない。

いつもは、こんなときは……人前の場合は、教師らしく澄ましたような顔をしながらも……将の瞳を見ながら答えているのに。

「アキラ、今日は午後が自由時間だろ」

将は、ソファーの上で組んだ、聡の膝に手を置いた。

聡は、一瞬将の顔を見て、その視線をツイっと書類に戻した。不自然きわまりない。

そのくせ、

「……そうよ」

としか言わない。

いつもだったら、微笑むか、さもなくば「何?その手は?」などと笑いながら抗議をするはずだ。

――おかしい。何かあったのか。

「アキラ。俺、何かしたっけ?」

それを聞いて、聡の視線は初めて、将の瞳に戻ってきた。

しばらく聡は将を凝視していた。

しかし、視線と一緒に将に注がれていた意識が、次第にどこかに行ってしまったように、

気がつくと、聡のガラス玉のような目は、呆けたまま将に固定されていた。

何か言いたげに唇は心持ち、開いたまま。

「鷹枝くん、はい、シップ。大きさはこれで大丈夫?」

山口の声で、二人は我に返る。

将は立ち上がって、シップを受け取ると、後ろ髪を引かれる思いで、部屋を後にするより他なかった。

そのときだけ……聡は立ち去る将をすがるような目で見ていた。

 
 

昼食のときも、同じだった。将を盗み見るくせに、目をあわせようとすると逸らす聡。

一見、何気ない会話を交わしながら、あきらかに様子が変だ。

朝のようすからだと、将に何か原因があるのか。しかし、将にはまるでわからない。聡に嫌われるようなことをしただろうか。

――スキーが下手すぎるから愛想をつかしたとか。まさかな。

聡がそんな浅はかな女だとは思わない。授業中を思い出す。

もともと聡の担当教科である英語は、他の教科に比べるとあまり得意とはいえない将である。

特に会話中心の授業に移ってから、ロールプレイング中、何度も恥かしい間違いを犯して、クラスの笑いを誘うようなことをしている。

しかし、そんな将を、聡は温かい目で見てくれていた。

『何度も間違えたほうが上達するからね』

などと言ってくれたはずだ。

 
 

そのとき、聡が席を立った。手にしたトレーには、昼食メニューであるスープカレーがまだ半分も残っていた。

食欲がないのだろうか。将は自分も食事の半ばで立ち上がり追った。

「アキラ!」

「将……鷹枝くん、どうしたの」

呼び止められて聡はエレベーターの前で立ち止まった。

一瞬、驚いたような表情を浮かべたが、事務的な顔にすぐ戻る。

「アキラ、話があるんだけど」

「……あとでね。私、着替えるから」とそっけない。

「スキー、やるの?」

将が訊いたとき、チン、と音がしてエレベーターが開いた。

エレベーターの箱の中に移動した聡は、頷きながら、箱の外にいる将を見つめた。

さっきと同じ、何かを訴えたいような、瞳。

将が口を開こうとしたとき、その姿は、両側から閉まったエレベーターの扉によって遮断され、将は取り残された。