スキー研修2日目もよく晴れた。
1月にしては珍しく、羊蹄山もニセコアンヌプリの山頂もその白いピークを青い空にくっきりと浮かび上がらせていた。
将は腑に落ちない思いを抱えて、昨日よりは少し傾斜がきつくなった、それでも緩斜面にボーゲンでたどたどしくカーブを描いていた。
2日目は、個別の習熟度によってグループ編成が変わった。
昨日までの内容が巧くできて上の内容に移るグループと、まだ繰り返すグループとに分かれる。
将は当然、上のグループに入った。
おかげで講師はまたも、あのマッチョ講師だったが、将自身のレベルがあがるにつれて、彼がなかなか優秀な講師だということがわかってきた。
カマっぽい口調に、体をすぐに触るのには、少々閉口ぎみだが、何といってもわかりやすい。
おかげで、将は午前中が終わる頃には、ボーゲンながらターンがそこそこできるようになっていた。
昨日は制御しようのなかった雪の斜面が、気持ちのいいものに変化しつつあった。
もともと運動神経は悪くないのと、少しでも聡に近づきたいと頑張ったというのもある。
「ボーゲンがちゃんとできればぁ、理論的には45度まで滑れることになるのよ」
とお墨付きをもらう。聡に少しは近づけただろうか。
その聡が、昨晩から今朝にかけて、あきらかに変だった。
昨日、トランプのすぐ後に、消灯時間がやってきた。
消灯時間を守っていないのが見回りにきた多美先生にバレると、部屋のメンバー全員が廊下に1時間立たされる。
初日に井口とユウタの部屋のメンバーがそれをさせられた、というのが伝わっていたので、将は布団の中から聡にメールを打った。
『聡、さっきは何で、俺にチューしなかったんだよー』
プンプンと怒る顔文字を添えて送信する。
返信が来るのに時間が掛かった。スキーで体力を使った将である。暗いのと、布団が温まったのとで、急激に眠気が襲ってきた。
イヤホンにしておいた着信音で、自分が眠ってしまっていたことに気付く。
『だって、人前でそんなことできないよ』
と返信が返ってきた。
『ケンちゃんにだったら出来るワケ?』と訊き返す。
またずいぶん時間がかかっての返信には
『だって、将と私のことがこれ以上、みんなにバレたらマズいでしょ』
とあった。教師の立場としては、仕方ないのかもしれない、と将は一応納得する。
思い直して
『明日もスキーやるの?』
と話題を変えた。
『わからない。天気次第かな』
どうも、今日の聡の返信は、鈍い。行きがけのバスの中のようなチャット状態を楽しめない。
おかげで将は、待つたびに眠りに飲み込まれそうになる。
もしかして聡も眠いんだろうか。極限に眠い将の頭は、きっと、そうだろうという答えを導き出した。
だから……もう、おやすみの挨拶を送ろう。
マイスイート・ハニーがいいか、I LOVE YOU がいいかそれともジュテームとフランス語を使うか。
そんなことを考えているうちに将は、体の疲れに引きずられるように熟睡に落ちていった。
そのときは、まだ聡の異変に気付いてなかったのだけど。
あきらかにおかしいと気付いたのは今朝だ。
朝食の席でも、そのあとのミーティングでも、将はことあるごとに聡を見ていたのだが、聡は将と目があいそうになると、その視線をフイッとはずした。
今までも、人前の場合は、そういうことがあったが、今朝の場合は、なんだかその視線のはずし方が変だった。
単に人目をごまかすため、とは違う。
その証拠に聡もときどき将を盗み見ていた……なのに将と目があうと視線をはずしてしまう。
将は思い切って、朝食の後、皆がスキーの身支度をしているときに、口実を設けて聡たちの部屋を訪ねた。
「すいませーん。筋肉痛がひどいんでシップか何か下さい」
などと山口に頼むふりをしながら、ソファで書類を見ている聡を振り返る。
このときも、だった。聡の顔は……将がこっちを振り返るまで、将のほうを向いていた。
それを将が聡に向き直るなり、まるで『ダルマさんが転んだ』のように膝の上の書類のほうに頭をくるっと向けた。
「センセイ、何みてるのー?」
まだそれを偶然だと思いたい将は、明るく声をかけながら聡のわきに歩いていった。
聡が腰掛けるソファーの横にしゃがみこんで、小声で話し掛ける。
「アキラ、俺、Aグループだぜ」
スキーの習熟度別グループ分けの、上位に入ったことを聡に告げる。
「そう、よかったじゃない」
将が聡の顔をのぞきこんでいるのに、聡の視線は書類から動かない。
いつもは、こんなときは……人前の場合は、教師らしく澄ましたような顔をしながらも……将の瞳を見ながら答えているのに。
「アキラ、今日は午後が自由時間だろ」
将は、ソファーの上で組んだ、聡の膝に手を置いた。
聡は、一瞬将の顔を見て、その視線をツイっと書類に戻した。不自然きわまりない。
そのくせ、
「……そうよ」
としか言わない。
いつもだったら、微笑むか、さもなくば「何?その手は?」などと笑いながら抗議をするはずだ。
――おかしい。何かあったのか。
「アキラ。俺、何かしたっけ?」
それを聞いて、聡の視線は初めて、将の瞳に戻ってきた。
しばらく聡は将を凝視していた。
しかし、視線と一緒に将に注がれていた意識が、次第にどこかに行ってしまったように、
気がつくと、聡のガラス玉のような目は、呆けたまま将に固定されていた。
何か言いたげに唇は心持ち、開いたまま。
「鷹枝くん、はい、シップ。大きさはこれで大丈夫?」
山口の声で、二人は我に返る。
将は立ち上がって、シップを受け取ると、後ろ髪を引かれる思いで、部屋を後にするより他なかった。
そのときだけ……聡は立ち去る将をすがるような目で見ていた。
昼食のときも、同じだった。将を盗み見るくせに、目をあわせようとすると逸らす聡。
一見、何気ない会話を交わしながら、あきらかに様子が変だ。
朝のようすからだと、将に何か原因があるのか。しかし、将にはまるでわからない。聡に嫌われるようなことをしただろうか。
――スキーが下手すぎるから愛想をつかしたとか。まさかな。
聡がそんな浅はかな女だとは思わない。授業中を思い出す。
もともと聡の担当教科である英語は、他の教科に比べるとあまり得意とはいえない将である。
特に会話中心の授業に移ってから、ロールプレイング中、何度も恥かしい間違いを犯して、クラスの笑いを誘うようなことをしている。
しかし、そんな将を、聡は温かい目で見てくれていた。
『何度も間違えたほうが上達するからね』
などと言ってくれたはずだ。
そのとき、聡が席を立った。手にしたトレーには、昼食メニューであるスープカレーがまだ半分も残っていた。
食欲がないのだろうか。将は自分も食事の半ばで立ち上がり追った。
「アキラ!」
「将……鷹枝くん、どうしたの」
呼び止められて聡はエレベーターの前で立ち止まった。
一瞬、驚いたような表情を浮かべたが、事務的な顔にすぐ戻る。
「アキラ、話があるんだけど」
「……あとでね。私、着替えるから」とそっけない。
「スキー、やるの?」
将が訊いたとき、チン、と音がしてエレベーターが開いた。
エレベーターの箱の中に移動した聡は、頷きながら、箱の外にいる将を見つめた。
さっきと同じ、何かを訴えたいような、瞳。
将が口を開こうとしたとき、その姿は、両側から閉まったエレベーターの扉によって遮断され、将は取り残された。