第339話 スキャンダル(4)

「ちょっと出かけてくる」

家政婦が気がついたとき、すでに将はダッフルを引っ掛けながら玄関に向かっていた。

「だめですよ! お坊ちゃま、まだ記者が……」

「いい」

止めようとする家政婦を短い言葉で無視すると、将は玄関でバッシュを履き始める。

「だめです。私が叱られてしまいます」

立ち上がる将に、泣きそうな声で家政婦が引きとめようとしたそのとき。

玄関のドアが開いた。

純代だった。

ちょうど父兄会が終わって帰ってきたらしい。

ブランド物のスーツを着て、髪を巻き上げた純代は、ちょうど玄関にいた将に驚いて目を見開く。

「何事?」

「……奥様、止めてください。お坊ちゃまが、今から出かけると……」

家政婦は純代の姿を見てほっとしたのか、手をあわせるようにして、懇願した。

「将」

純代は将を見上げた。……自然に前に立ちはだかる格好になる。

「聡が倒れた。見舞いに行かなくちゃ」

将は早口で説明すると、純代の脇をすり抜けようとした。

「お待ちなさい」

純代はあわてて、手を広げる。

「行かせてくれ……。行かなくちゃいけないんだ」

「だめよ。将、落ち着きなさい」

将は純代を交わそうとさらに横へ行こうとする。純代もそれを防ごうと動く。

まるでバスケのディフェンスとオフェンスのような攻防になる。

純代はついに、突っ張り棒のように手をかけて、ドアの前に立ちはだかった。

「行かせてよ!頼む!」

その手を力まかせにはずそうとした将だったが、次の瞬間、玄関に派手な音が響き渡った。

家政婦が思わず口に手をあてる。

将は……紅くなった頬に思わず手をあてて、呆然としている。

……純代が、将の頬を思い切りはたいたのだ。

「落ち着きなさい!将!」

純代の鋭い声が、玄関に反響する。

「こっちへ、来るのよ!」

純代は呆然とする将の手を引っ張ると、孝太のピアノ部屋に引っ張り込んだ。

……このことが家政婦の口から他に広まるのを危惧した純代は、冷静に行動したのだ。

防音を施してあるこの部屋の扉を閉めてしまうと、純代は将に向き直った。

「……あなたが今出て行って、聡さんのところに行ったら、どんな騒ぎになるかわかっているの?」

声を落としながらも、純代は将の瞳をまっすぐに見つめて続ける。

「聡さんのことが、バレたら、あなたはもちろん大変なことになるけど……。いまは聡さんのほうにむしろ迷惑がかかるのよ」

「でも!」

将は、叫んだ。あの週刊誌の記事の弁解……否、自分の過ちの弁解を……直接逢って話さないと……。

しかし、将はそれを……自分のしでかした聡への裏切り行為を、まさか純代に口にすることなどできない。

純代は、なおも続ける。

「教え子の子供を妊娠した教師なんて……世間のバッシングを一身に受けるのは、むしろ聡さんのほうなのよ。……将、あなたは世間の恐さをわかってない」

叩かれた頬は、じんじんとしている。

その痛みは……1年以上前、聡に叩かれたときとそっくりだった。

将はうなだれた。唇を噛み締める。痛いほどに。今はそんなことでしか自分を罰することができない自分。

「……聡さんのことは、私もさっき聞いたわ。……私に任せなさい。明日、病院に行ってくるから」

純代は、将の背中にそっと手を添えた。

「将、……あなたは、今は、センター試験のことだけを考えなさい。……それが、聡さんのためなのよ」

――アキラ、アキラ!

許してくれ。俺を見放さないでくれ。

噛み締めた唇は……いつしか血が滲んでいたが、そんな痛みはどうでもよかった。

聡が離れてしまう痛みは、きっと将を死に至らしめるに違いない。

将が怖いのはそれだけだった。

 
 

「聡?」

秋月が……聡の涙に気付いた。

「どうしたん……?」

優しい声に聡は、ハッとする。

何でもない、と言いかけてやめる。

あとからあとから湧き出てくる涙。どう見ても何でもない状態ではない自分。

東と、将は違う。

東とのつらい思い出に、無意識に今の将を重ねている自分に気付いた聡は、自分に必死で言い聞かせる。

だけど理性は、あの頃の東と、将がほぼ同じ年齢であることを聡に気付かせる。

……断じて違う。だけど、裏切りの記憶は聡の心の一番柔らかいところから、知らず涙をこぼさせてしまっていた。

「大丈夫か。……つらいことがあるなら、吐き出しちゃえよ」

秋月は、聡が思い出に涙したのではないことを察したらしい。

「うん……。大丈夫……。ありがとう」

言葉だけでは信じられないだろうと、聡は泣いたまま微笑んで見せた。

だけど涙は止まってくれない。

「聡……、結婚してないんやろ」

秋月はとうとう、核心に触れ出した。

聡が旧姓のままであることは……聡が持っていた母子手帳を見れば一目瞭然だ。

このまま我慢してしまう聡を見かねての、優しいつっこみ。

目をきゅっとつむった聡に、秋月はさらに続けた。

「あのコか。去年、萩まで来た……」

否定しなくては。聡が目をあけたときにはもう遅かった。

秋月は、確信を持って聡の眼が開くのを待ちかまえていた。

「鷹枝ってコが……相手なんやろ」「言わないで」

とっさにそう言うのがせいいっぱいだった。

「言わないで……。学校にも、うちの親にも……内緒にしてるの。だから絶対に言わないで。名前を口にするのもやめて」

聡の必死の表情に、秋月はややたじろいだようだった。

「鷹、いや……相手は、知っちょうと……」

聡は深く頷いて、秋月の表情に浮かぶ、将への非難の色を弱めようとした。

「知ってる……。生んでほしいって……。一緒になろうって、言ってくれた……。親ごさんを説得するために……無理して東大を目指してる……」

そうやって将をかばう自分は……やはり将を愛している。

朝から一連のつらい状況の中で忘れかけていた将への愛。

しかしそれに気付いたからこそ、聡は目を伏せる。

「だけど……」

言いかけた聡だったが、再び涙がこみあげてきて、言葉に出来なかった。

秋月は黙っていた。

それ以上は言わなくても、理解したようだ。

わかっている。わかっているから自分を責めるのはやめろ。……そんな言葉の代わりに聡の額をそっと撫でる。

それは、懐かしい感触だった。

帰国子女だった聡。『気取っちょう』と女子から無視されて……こっそりと泣いていた中3の。

『泣くな。お前はいっちょん悪くない』

と撫でてくれたあのとき。

「秋月……。優しいよね」

「今ごろ気付いたか」

秋月は掌を聡の額から髪へと往復させながら、口の端をいたずらっぽく上げた。だけど瞳はこれ以上ないほど優しい。

「あたし、……なんで、秋月と付き合わなかったんだろ」

聡は鼻を啜りながらも、秋月の冗談に応えて微笑んだ。

「……ホントや。聡は男を見る目がないな。……バーカ。聡のバーカ」

秋月の口調は、十代の頃のそれに戻った。

そしておもむろに額から手を移動させると、頬っぺたを柔らかくつまんだ。

「変な顔ー」と子供のように笑う。

「ひっどーい。綾さんに言いつけてやる。お宅のダンナさんがいじめましたって」

聡も子供のように応酬して見せた。

「最悪」

秋月が聡を元気付けようとしてくれているのがわかる。

その温かさに聡はようやく心から笑うことが出来た。

 

「卒業式が終わったら……学校は辞めるんだろ」

しばらくして……完全に聡の涙が止まったのを見届けた頃、秋月は話題を控えめに戻した。

「うん」

「そのあと、どうすんの。どこで、産むの」

「……さあ。どうなるのかな」

聡は、視線を天井に遊ばせた。今からたった半年以内のことなのに。もう今年のことなのに。

聡は見当がつかなかった。……将とはどうなっているのだろう。

ちくりと、今朝からの痛みを思い出す。

「そしたらさ、萩に帰ってこいよ」

意外な提案に、聡は視線を秋月の顔に戻す。

「仮にさ。東大に合格したからといって、すぐに一緒になれる……ってわけじゃないんやろ」

秋月は、聡を慮ってか、慎重に言葉を選びながら、現実問題を恐る恐る持ち出した。

完全に落ち着いた聡ではあるが、気遣ってくれる秋月の気持ちが嬉しい。

「将は……、そのつもりでいるみたいだけど。無理よねー」

その気持ちに応えようと、聡はまるで他人事のように、語尾を延ばしてみせた。

「……あいつのオヤジさん、今年の総裁選候補だろ」

秋月がもたらしたのは、聡の頭から抜け落ちていた事実だった。

聡の脳裏に、将の父親の……康三の顔がサブリミナルのように蘇る。