「彼女いたら、どうして無理なのよ」
橋本は可笑しそうに将に訊き返した。
「いや……、別れさせたりとか、あるんでしょ」
笑われた将は、照れを隠すように、顔をあげた。
「いやね。いつの時代の話?」
そんな将に、橋本はクスりと笑った。
「別に恋愛は禁止してないわよ、うちは。彼女、同級生?」
「いえ……」
将は下をむいた。
さっきから、移ろう将の表情を、篠塚は間隙なくシャッターで撮り続けている。
「何、年上?……そうなのね。いくつ上なの?」
「9、いえ8歳年上です」
もうすぐ将は18になるんだから、8歳差だ。
と将は強気に出ながら、18歳になることを思い出して、うつむいた顔に思わず笑みが出そうになる。
もうすぐ、聡を抱ける。
将は……昨日、来週の土曜日にあわせて海が見えるホテルを予約した。
聡のために、日常から少しでも掛け離れた場所を用意しようと考えた結果だ。
非日常な中の逢瀬なら、その後、学校で会い続けても、聡が恐れる後ろめたさや生々しさが薄れるのではないか、と将は気を遣ったのだ。
今日か明日、聡にそれを伝えることを考えると、将はワクワクした。
「ずいぶん年上なのね。何してる人?本気なの?」
9歳を8歳と少なめに申告したにもかかわらず『ずいぶん年上』であることは変わりないらしい。
橋本は立て続けに訊いて来た。
まさか、自分の担任教師だとは答えられない。
それが、一般的にスキャンダラスであることぐらい、将でもわかっている。
だから顔をあげて、最後の問いにだけ、うなづく。
うなづいた将の瞳に、篠塚のシャッターが炸裂した。
「本気で好きなんだ。いいなぁ。恋する青年」
ひとしきりシャッターを切って篠塚が言葉を発した。
茶化しているような内容なのに、将は不思議に腹が立たなかった。
さっき、つま先から頭のてっぺんまでチェックされたときもそうだが、この篠塚というオヤジは失礼なことを失礼なことと思わせないテクニックに長けているようだ。
「将くん、高3だわよね。進路は?大学はいくの?」
橋本は、質問の方向性を変えてきた。
将は、篠塚に促されて立ち上がると、その指示通り、走った。
走る将を下から篠塚は捕らえている。
将は走りながら「まだ、決めてません」と答える。声が振動で震える。
「そう。じゃあ、進路の候補の中に、ウチも入れておいてよ」
橋本社長は、あっちに行ってしまった将に向かって叫ぶように誘った。
篠塚はカメラを構えながら将に合図を送った。こっちに向かって走って来い、という合図である。
将は言われたとおり、わずかな距離を全力でこっちに駆けてきた。
何度も繰り返すとさすがに、短い距離でも息が上がった。
将は膝に手をついて息を切らせながら
「だけど、俺、結構悪いことをしてますから」
と橋本社長に顔をあげた。
「悪いことっていっても、鑑別所に入ってたわけじゃないんでしょ」
鑑別所、という言葉に将の心はチリリと痛んだ。
本当だったら入ってたかもしれない、檻。
将は頭を地面に投げ出すように、下をむいた。踏み固められた地面に、早くも蟻が這っていた。
「せいぜい、女の子に何かしたとか、それぐらいなもんでしょ?将くん、私調べたのよ。……あなた、官房長官さんの息子さんなんでしょ」
将は再び橋本のほうに顔をあげた。おさまらない息が邪魔だ。……胸が苦しい。
将のヤクザ殺しについては、大悟がやったことになっているから、表には絶対に出ないことになっている。
将自身も、きつく口止めされているから、今まで誰にもしゃべったことがない。
橋本が調べたというのは、中学時代からの将の非行についてのことだろう。
「調べたんなら、ダメだってわかるでしょ。あの親が許すはずがない」
将は視線をはずして、投げやりに言った。
「そうかしら」
橋本は得意げな顔になった。いかにも親の説得に自信がありげな表情である。
立っていた橋本は将に顔を近づけた。
「親御さんの説得は置いといて。……ねえ、家出してて、年上の彼女がいるなら、早く自立したいと思わない?」
実際そうだった。
聡のために早く自活したい。
だけど、何をすれば……。将にはまだ、やりたいこともわからないし、何ができるのかもわからなかった。
そこへ、篠塚が近寄ってきた。
「キミのルックス。お金になるよ。しかも、ハシタ金じゃなくて、一生ゼイタクできるぐらいの。ちょっと努力すれば日本征服できるよ」
と笑った。
――日本征服って、何だよ。
わけもわからず、将はあいまいに笑った。
「篠塚さんの言うとおりよ。……ま、無理強いはしないけど。よかったら今後、バイトしにこない?今日のよりもっと楽しいお仕事まわすわよ」
橋本はウインクした。
「まあ、バイトだったら……」
うさんくささを払拭できない将は、歯切れも悪い返事しかできない。
篠塚は将の撮影が終わると、そのまま自分の事務所に帰ってしまった。
「いち早くチェックしたい」と言っていた。
将は橋本社長と、再び女性の注目を浴びながら、元の現場に戻った。
戻ってきた将を見て、美智子が
「お疲れさまです!」と声をかけてきた。
何もかも知っているように、ニコニコしている。
午前のヤラセ部門は終わりらしく、皆で食事をすることになった。
大悟はすっかりスタッフと打ち解けて、カメラマンや助手の人に仕事のことをあれこれ聞いては、興味深げにうなづいている。
そんな大悟の様子に、将は誘ってよかった、と心から思った。
二人は、その場で謝礼として1万円ずつもらった。
時給換算すれば、この間より割りは悪いが、それでもラクだったせいか大悟は満足そうだった。
大悟は、帰り道の電車の中、将にポツリとつぶやいた。
「俺も、頑張らないとな」
将はつり革を持ったまま、大悟の横顔を見た。
「明日からちゃんとした仕事を探すよ」
大悟は、窓の向こうの景色をまっすぐに見つめていた。
専門技能を持って働く人たちは、大悟に新しい活力を与えたらしい。
将は、ただ「頑張れよ」と言った。
将も……大悟の立ち直りを喜ぶだけでなく、ちゃんとした自分の将来を見つけなくてはならない。
何をしたらいいのだろうか。
ため息をついた将は、電車の中の家族連れに目がとまる。
土曜の今日は、家族連れも多い。お父さんと、お母さんと、子供。幸せそうだ。
ふと聡を思い出す。
聡は……自分に何をのぞむだろうか。何をやってほしいだろうか。
逆に。やりたいことがない将は、聡がのぞむことなら何でもやれる、と思う。
聡次第で将は、何にでもなれる。聡を思った将は腹の底に温かい力がわいてくるのを感じた。
駅を降りると、
「今日は、アキラ先生の家に泊まってこいよ」
と大悟は微笑んだ。
「だけど、お前、またパチンコ……」
「しないよ。安心しろよ。俺はもう、大丈夫だから」
心配する将の肩を、大悟は、ポンと叩いた。そして
「今までずっと付き合わせて悪かったな。……行ってこいよ」
と笑顔で将を促した。
このとき、将は、大悟が本当に立ち直ったことを疑わなかった。
だが、世間の厳しさの前に、さらに大悟が打ちのめされるのに時間はかからなかった……。