第356話 遠い春(6)

チョコを将のマンションの郵便受けに入れた聡は、久しぶりに商店街を歩いてみる。

今日もよく晴れて、温かい陽射しが雑居ビルの間から降り注ぐ。

風はまだ冷たいけれど、季節は確実に春に向かっている……聡は目を細めて青い空を仰ぐ。

まだ昼下がりといえる、午後も早い時間。

聡は、かつてバイトしていた弁当屋に足を向けた。

……この時間だったら、たぶん主人は休憩を取っているはず。

膨らんだお腹を……わが子のように接してくれた弁当屋夫妻に見せるべきではないと聡は考えていたのだが、大晦日におかみさんにバレてしまった。

きっと、心配しているだろう……近くに来たついでに、おかみさんには元気な顔を見せておこう、と思いついたのだ。

将のマンションから弁当屋は近い。

そこで……聡が見たのは、弁当屋の前に止まる2台のトラックだった。

運送会社の名前が側面に大きくペイントされている。

弁当屋のシャッターは開いていたが、そこから制服姿の男達がせわしなく、ダンボールや厨房機器を積み込んでいる。

聡は思わず自分の姿を忘れて近くに駆け寄った。

おかみさんも、主人も、引越しの業者にまじって荷物の積み込みを手伝っていた。

「……聡!どうしたんだ、そのお腹!」

おかみさんと同時に聡に気付いた主人は、重いダンボールを抱えたまま、眼を見開いた。

「あ……」

とまどう聡に、おかみさんは

「いろいろ事情があるんだよ。あとで話すからっ」

と主人を荷物運びに追い払うと、親しげに近寄ってきた。

「よかった、あきらちゃん。出発する前に会えて」

「ど……どうしたんですか……これ」

それで、聡はようやくこの状況についての問いを発することができた。

「急にね、再開発が決まってね」

「再開発?」

おかみさんは諦めたように微笑むと頷く。

「大きなショッピングセンターだか、なんだかができるんだって。それで立ち退き」

「そんな……」

聡は絶句した。

次に、この街並みを見回す。

きれいとか、そんなんじゃないけれど。特に何にもないけれど。

駅前の、なんだかゴミゴミした商店街が……聡は好きだった。

活気があって、懐かしい雰囲気が漂っていた。

将と出逢ったのもこの弁当屋だった。

そんな思い出の場所が、なくなってしまう……。

「それで、おかみさんたちは、どこに?」

ハッとした聡は、慌てて重要なことを訊く。

「あたしの里に引っ込もうとおもって。愛媛の、宇和島に」

愛媛、宇和島……あまりに急なことで聡はそれがすごく遠いということしか思い浮かべられない。

「ほら、前にミカンあげたでしょ。……お金もたくさんもらったし、ミカン畑の手伝いしながら、ゆっくり暮らすわ」

リアス式海岸の穏やかな海へ続くなだらかな段々畑に、ミカンが実る風景。

ようやく、中学の教科書か何かで見た風景を、聡は頭の中に展開することができたが、やはり遠いことにはかわりない。

「ちょっと早いけど、リタイヤ」

言葉を失う聡に、おかみさんはそういって微笑んだ。

それでも……血色のいい、ツヤツヤとした頬がどことなく寂しげだ。

そのとき、荷物を全部積み終わったのか、主人がやってきた。

主人は、睨むように目を見開いて、聡を見据えた。

聡は思わず後じさりたくなる。主人は「今、何ヶ月だ」と訊いた。

「……8ヶ月です」

答えつつも聡は主人の顔を見続けることができずに視線をおろす。

「相手は……」と質問を続けようとする主人におかみさんが割って入る。

「あんた、それはあたしがあとから教えるから」

主人はフン、と不服そうに質問を中断しつつ、

「……それで、ここしばらく顔を見せなかったんだな」

と一人うなづいた。

聡は、何を言えばいいのか、どんな顔をするべきなのか、わからずに、ただ俯いて

「すいません」

と謝るしかない。

そのとき、運送会社のスタッフが出発を告げに来た。

厨房機器はしかるべき業者へ、家財を積んだトラックは愛媛へと出発するらしい。

スタッフに一礼をして、トラックが出発するのを見届けた主人は……ふいに聡に向き直ると唐突に問いを続ける。

「……それで、後悔はしていないんだな」

「あんた……」

おかみさんがハラハラとして二人を見比べる。

聡は顔をあげて主人の顔を見た。髪にも眉毛にも……前より白いものが増えている。

怒っているような口調だが、深い皺に縁取られた瞳は、愛情に満ち溢れていた。

――心配してくれている。

聡の中に、忘れていたものがこみ上げてくる。

こみ上げてきたものは、聡に覚悟を促した。……再度の覚悟を。

聡は唾と一緒に覚悟を腹へと落しこんだ。

――後悔しない。まだ何があるかわからないけれど、絶対に。

「……はい」

深く頷く。

「幸せになれるんだな」

今度こそ、聡は涙がたまりそうになってしまう。

だけど、聡はわかっている。

この先どうなろうとも、自分の選んだ道を後悔しないということは……幸せになるべく、たゆまぬ努力を重ねていくということだと。

それが将と一緒になれても、なれなかったとしても。

声にすることはできなかったが、聡は主人の瞳を見据えたまま、大きく頷いた。

主人はそんな聡を見届けると、何度も、何度も……自らを納得させるように頷いた。

「子供が生まれたら、家族で宇和島に遊びに来い。きっとだぞ」

最後に主人はそういって聡の肩に手を置いた。

必死で耐えていた涙が、ここで崩れるようにボロボロとこぼれてしまった……。

 
 

そんな3人を。

商店街の中で、さりげなく見張っている男がいることに、誰も気付いていなかった。

やがて弁当屋夫妻が、聡と別れて駅へ向かったのを見届けて……男は電話をかけた。

「○○夫妻、滞りなく旅立ったようです」

その電話を受けていたのは、将の父、康三の秘書の毛利だった。

毛利は、労いの言葉を部下にかけると、電話を切った。

聡がバイトしていたこの弁当屋で、将が常連客だったことを、当然毛利は知っていた。

この夫妻が聡を娘のように可愛がっていたことも把握していた。

二人の接点であるこの弁当屋だから……おそらく主人夫妻は、二人の秘密を知っているだろうと毛利は予測していたのだ。

つまり引越しも……それを促す開発計画も……すべては、秘密が漏れることを恐れた毛利が講じた先手だったのだ……。