第108話 甘い時間

「鷹枝くん、元気?」

病室のドアが開いて、看護士の山口が顔を出した。

もう月曜日、入院して5日目の夕方だ。

「へいへい、と」

初め、聡がいつ現れるかと、ノックがあるたびに期待していた将だが、聡の風邪は思ったよりひどかったらしい。

この土日も『伝染るといけないから』とメールがあって、将の病室を聡が訪れることはなかった。

この時間だったら日勤を終えた山口だろうと、と将はパソコンの画面から顔もあげなかった。

「もうっ、可愛くない。いいもの見せてあげないわよっ」
「ハイハイ、何ですか~……、……!!」

ようやく顔をあげた将は、嬉しさのあまり口がパクパクしてしまった。ドアのところには、聡が立っていたのだ。

逢いたくて、触れたくて、声が聞きたくてたまらなかった聡。

「アキラ!風邪治ったの?」

将は自由のきかない体をベッドの上から乗り出すようにして、聡に声をかけた。本当は駆け寄りたい。

「これ、何ですか、先生を呼び捨てで」

咎める山口を

「いいんですよ。いつものことですから」

聡がなだめる。少し低めの、でも温かみのある声。将がどんな音楽よりも聞きたかった声だ。

「アキラ、こっちこいよ。山口さん、ありがとね。もう帰っていいから」
「んまー!なまいきっ」
「どうもすいません。あの、よろしかったら一緒に食べませんか?」

と聡はお見舞いが入ったケーキ店の紙袋を指差した。

「ええー!山口さんには明日、あげるからサ」

早く聡と二人になりたい将は、追い払うように山口を帰してしまった。

「将ってば……。山口さんに失礼よ」
「アキラ、ここに座れよ」

咎める聡にはまるでおかまいなしに、将は腰をずらして、ベッドの自分の隣の空間を少しあけた。

「もう……。痛みは治まったの?」

聡は苦笑しながら、将の隣に腰掛けた。

将はそのぬくもりが100年ぶりのように思えた。

殺風景な病室も、聡がいるだけで、華やぎ、寛ぎの空間になる。

その効果はたとえ見舞いの花で病室が埋め尽くされようと、かなわない。

だから、将は問いかけにまったく答えずに、いきなり聡の肩を抱き寄せた。そして素早く唇を重ねる。

柔らかな聡の唇、学校帰りだから塗りなおしたのであろう口紅がついている。

将はべとべとしたそれが付くのを気にもせずに、聡の唇をむさぼった。

「ん……、ダメ。誰かくるかも」

将の強い匂いに包まれた聡はクラクラしそうになりながら、将の肩を手で押し戻した。将の唇に、ナチュラルピンクの口紅がべっとりとついている。

「大丈夫だってば。夕食まで誰もこないよ」

再び将は聡を強く抱きしめて、続きをした。聡の唇から舌を挿し入れる。口の中で聡の舌と将のそれがからみあう。湿った粘膜の官能的な感触。

「コラ……。なあに、この手は」

聡が小さくとがめる。将は聡に深い口づけをしながら、服の上から聡の胸のふくらみに手を置いているのだ。

「いいじゃん。俺、もう限界……。アキラが会いにきてくれないから」

左手で聡の肩を抱いたまま、右手は聡の胸をとらえて、大きく円をえがくように揺らす。

聡は、ブラジャーに守られた先端が硬くなり、心臓が甘く動き出すのを感じた。

「あれに毎日挑発されてるからさぁ」

早くも頬を紅潮させ始めた聡の耳元に囁く。聡がそっちに目を走らせると、そこには大きなギプスに覆われた将の左足があった。

「もうっ。なあに、あれ?」

ギプスには、マーカーで、さまざまな落書きと共に、ピンク色の乳首もなまめかしく、女のヌードが描いてあった。しかも矢印で『アキラ先生』と示してある。

「ユウタのヤツが描いた」
「もう……」

といいつつも、聡は頬を紅潮させて、将の顔をみてフフっと笑った。

「……口紅、ついてる。将、女装も似合うんじゃない」
「もうアキラ、ムードないなー」

将も聡のふくよかな胸の感触を服地の上から、今一度確かめるように揺らすと、聡の瞳を見て笑った。

二人は笑いあうと、もう一度軽くキスをした。

 
 

 
まもなく夕食時間になったが、将があまりに頼むので聡は、病室にいることにした。

看護士が夕食を運んできたときはさすがに傍らの椅子に座りなおしたが、看護士がドアの向こうに消えた今、また将の隣に座っている。

まるで会えなかった5日間のぬくもりを取り戻すかのように、将は聡に触りたがった。

聡も……パジャマごしに触れる将の固い筋肉や熱い体温、若いけど低い声を感じて、自分がいかにそれを恋しがっていたかを実感した。

理性で押さえていたけれど、逢えば逢うほど歯止めが利かなくなっていく……。

まさにベタベタするカップルの典型。自嘲しながらも聡は幸せに酔いしれていた。

「アキラ、いる?」

将が、トレーの上の酢豚を示した。実は……お腹が少し空いていた聡は、トレーの上に載っている夕食が旨そうに思えていた。

「じゃあ、一口だけ、ちょうだい」

将は、メニューの酢豚を箸に乗せて、聡のほうに向けた。

「ほい、あーん」

何回か将が口に運んで、舐った箸。当然、間接キス。あんなに唾液まみれの深い口づけを何度もしているのに、口をあけながら、聡は少し緊張した。

「アキラ、何赤くなってんの?」

酢豚を聡の口の中に運んだ将がいたずらっぽく指摘した。

「さてはエッチなこと想像してただろー」
「もー、そんなんじゃないってば!」

聡は肉を素早く噛むと、ますます赤くなりながら反論した。
 

 
 

「アキラ、もういいの?」

将は食事を続けながら聡に訊いた。何回かおかずをわけてもらっている。

「うん。あとはおうちで食べる」
「ここに泊まっていけばいいのに」

実際、個室の病室は、付き添い用のベッドを入れることもできるのだ。

「そういうわけにもいかないでしょ。明日も学校あるし。……ところで、将こないだ電話で言ってた、話しておきたいことってなあに?」
「ああ……」

食欲旺盛だった将の箸が少し止まった。

将は、少し残っていたおかずを全部たいらげてしまうと、ナースコールをした。インターホンに「終わりました」という。

ということは看護士が片付けに来る。聡はあわてて、ベッドから降りた。

……金曜日の夜。瑞樹が帰ったあとで、将はどうしても聡の声が聞きたくて電話をかけたのだ。

『話しておきたいことがある』と伝えたのはそのときだ。

夕食が片付けられると、将は聡をまたベッドの上に招いた。

両腕で聡の肩を抱き寄せる。しかし、今度は片方の肩に自分の頭をもたれるように聡に体重をかけた。

「なあに? 急に甘えん坊になってない?」

将の体重を感じた聡は、将の髪の毛に自分の指を埋めた。

――入院してよほど寂しかったんだろうか。

聡はすがりつくように体重をかけてくる将の髪や背中を優しく撫でた。

「アキラ……、何があっても俺のこと信じてくれる?」

将は、聡の耳に唇を押し付けるように、囁いた。

「なあに?突然」

聡は、笑いを含んだ声で答える。

将は体を離すと、今度は聡の両肩をつかんで、目と目を息がかかるほどの至近距離で合わせる。まるで口づけする直前のようだ。

びっくりして将を見つめる聡の瞳は、至近距離で見ると黒糖飴のような色だった。その瞳に将は誓うように宣言する。

「信じて、アキラ。俺、アキラしかいないから」

それに対して聡は、真剣に見開いた将の目は、間近に見ると、意外に大きいことに今気付いた。

どちらかというと将の目は、男らしい切れ長だと思っていた。二重瞼の甘いマスクでもあるのに、そう見えないのは、人を冷たく睨みつけるような表情によるものなのだろう。

「俺、自分から、信頼失うようなことしてるかもしれないけど……」

将はいったん、悲しげに目を伏せた。が、次の瞬間、

「だけど、信じて」

と再び目を見開いて聡の瞳を見つめた。

「ど……どうしたの?いったい」

聡は肩に置かれた将の手をそっと解きながら問い掛けた。

将は、そのまま、体を離すと聡を隣に置いたまま、リクライニングになったベッドに寄りかかった。遠い目をしている。

「将……」
「アキラ、瑞樹のことなんだけど」

将は重々しく話し始めた。